太原攻囲戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 12:17 UTC 版)
完顔宗望に率いられた西軍は、大同を出発して山西の山中を通って太原に向かい、宋の西京洛陽に向かった。宋軍は侵攻を全く想定しておらず油断していた。宋側主将の童貫は、二州割譲要求のために金に送った使者から金軍侵攻を知った。帰国した使者は、宋が河北・山西の支配権を金に譲るならば、金軍は侵攻を見合わせてもよいと報告した。童貫は太原から逃走し、禁軍が軍の指揮を執った。1126年1月中旬、金軍が太原を包囲した。禁軍の指揮のもと、太原は持ちこたえ、金軍の洛陽への進撃を阻止した。
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