太原戦役の敗北
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1946年(民国35年)、王靖国は第6集団軍副総司令兼第61軍軍長に昇進する。国共内戦でも閻錫山に随従して中国人民解放軍と戦い、1948年(民国37年)には第10兵団司令官兼太原守備司令に任ぜられた。しかし、閻錫山は人民解放軍相手に次第に劣勢となっていく。1949年(民国38年)3月、王靖国の娘の王瑞書は人民解放軍の徐向前から派遣されて王靖国に降伏を勧めたが、王靖国は拒否した。 同月29日、閻錫山は代理総統李宗仁の招聘に応じる形で南京へ飛行機で逃亡し、王靖国は太原綏靖公署副主任の孫楚とともに後事を閻錫山から託された。王靖国・孫楚らは更なる降伏勧告も拒否して懸命に太原を守備する。しかし同年4月24日、太原は人民解放軍により陥落させられ、王靖国と孫楚は捕虜にされた(太原戦役)。1952年、王靖国は戦犯管理所内で獄死した。享年60。
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