国際連合ルワンダ支援団の動向
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「ルワンダ虐殺」の記事における「国際連合ルワンダ支援団の動向」の解説
詳細は「国際連合ルワンダ支援団」を参照 国際連合ルワンダ支援団 (UNAMIR) の活動は、アルーシャ協定の時点から後のジェノサイドに至るまで、資源も乏しいこのアフリカの小国の揉め事に巻き込まれることに消極的であった大多数の国連安全保障理事会メンバーにより妨げられ続けられた。そんな中でベルギーのみが国際連合ルワンダ支援団に対し確固としたマンデートを与えることを要求していたが、4月初旬に大統領の警護を行っていた自国の平和維持軍兵士10人が殺害されると、同国はルワンダでの平和維持任務から撤退した。なお、ベルギー部隊は練度も高く、装備も優れていたため、同国の撤退は大きな痛手となった。国際連合ルワンダ支援団側は、せめて同部隊の装備をルワンダへ残していくよう依頼したが、この要求も拒絶された。 その後、国連とその加盟国は現実から著しく外れた方針を採り始めた。国際連合ルワンダ支援団のロメオ・ダレールは以前から人員増強を強く要求しており、ジェノサイドがルワンダ各地で開始された4月半ばの時点にも事態収拾のための人員要求を行ったが、これらは全て拒否された。さらに、虐殺が進行している最中に、ダレールは国連本部から"国際連合ルワンダ支援団はルワンダにいる外国人の避難のみに焦点を当てた活動を行うよう"指示を受けた。この命令変更により、2000人のツチが避難していたキガリの公立技術学校を警護していたベルギーの平和維持部隊は、学校の周囲がビールを飲みながらフツ・パワーのプロパガンダを繰り返し叫ぶ過激派フツに取り囲まれている状況であったにもかかわらず、同施設の警護任務を放棄して撤収した。その後、学校を取り囲んでいた武装勢力が学校内へ突入し、数百人の児童を含むおよそ2000人が虐殺された。さらに、この事件から4日後には、安全保障理事会は国際連合ルワンダ支援団を280人にまで減らすという国連安保理決議第912号を決定した。その一方で国連安保理は同時期に起こったボスニア紛争に対して積極的な活動を行っていた。ルワンダの平和維持軍削減を決めた国連安保理決議第912号を可決したのと同じ日に、ボスニア内における安全地帯防衛の堅持を確認した国連安保理決議第913号を通過させたことから、差別的観点からヨーロッパをアフリカよりも優先させたとの指摘がなされている。 ダレール少将は国連から与えられた停戦監視のみを目的とするマンデートを無視して住民保護を行い、4月9日には国連平和維持活動局本部から「マンデートに従うよう」指示を受けたが、その後もマンデートを無視して駐屯地に逃れてきた避難民を保護した。しかしながら、平和維持軍人員の完全な不足とマンデートから積極的な介入行動を行えず、目の前で殺害されようとする避難民を助けられず、平和維持軍の増員と強いマンデートを望むダレールの要求は拒絶された。 1999年、ルワンダ虐殺当時のアメリカのビル・クリントン大統領は、アメリカのテレビ番組の『フロントライン』で、"当時のアメリカ政府が地域紛争に自国が巻き込まれることに消極的であり、ルワンダで進行していた殺戮行為がジェノサイドと認定することを拒絶する決定を下したことを後に後悔した"旨を明らかにした。この、ルワンダ虐殺から5年後に行われたインタビューにおいて、クリントン大統領は「もしアメリカから平和維持軍を5000人送り込んでいれば、50万人の命を救うことができたと考えている」と述べた。 4月6日にハビャリマナ大統領が死亡した後、新たに大統領へ就任したテオドール・シンディクブワボ(英語版)率いるルワンダ政府は、自国への国際的な非難を最小限にするために活動した。当時のルワンダ政府は安全保障理事会の非常任理事国であり、同国の大使は「ジェノサイドに関する主張は誇張されたものであり、我が政府は虐殺を食い止めるためにあらゆる手を尽くしている」と主張し、その結果として国連安全保障理事会はジェノサイドの語を含む議決を出さなかった。 その後の1994年5月17日になって、国連は「ジェノサイド行為が行われたかもしれない」ことを認めた。この5月半ばには、既に赤十字により50万人のルワンダ人が殺害されたとの推定がなされていた。国連は大部分をアフリカ国家の軍人からなる5500人の兵員をルワンダへ送ることを決定したが、これは虐殺勃発以前にダレールが要求したものと同規模であった。兵員増強の可否に関して5月13日に投票で決定する予定であったが、アメリカのマデレーン・オルブライト大使の活動により4日間引き伸ばされ、17日まで投票が延期された。さらに国連はアメリカに50台の装甲兵員輸送車の提供を求めたが、アメリカは国連に対して輸送費用の650万ドルを含む計1500万ドルをリース費用として要求した。結果として、国連部隊の展開はコスト面や装備の不足などを原因として遅延し、5月17日に国連でアメリカが主張した通りに非常にゆっくりと展開した。 国際連合ルワンダ支援団(UNAMIR)は1994年7月にルワンダ愛国戦線が勝利を納めた後、同年5月時点で可決済みであった国連安保理第918号に従って人員数を5500人へ増強し(UNAMIR 2)、1996年3月8日までルワンダで活動した。一方で司令官であったダレールは、虐殺の発生を事前に知りながら防止できなかったこと、虐殺期間中も積極的な活動を行えなかったことに対する自責の念から任務続行が不可能となり、虐殺終結後の1994年8月に司令官を離任した。その後、カナダに帰国後もうつ病やPTSDに悩まされ続けていたという。また、帰国後に出演したカナダのテレビ番組では以下のように述べた。 私にとって、ルワンダ人の苦境に対する国際社会、とりわけ西側諸国の無関心と冷淡さを悼む行為はまだ始まってもいない。なぜなら、基本的には、非常に兵士らしい言葉遣いで言わせてもらえば、誰もルワンダのことなんか知っちゃいないからだ。正直になろうじゃないか。ルワンダのジェノサイドのことをいまだに覚えている人は何人いる? 第二次世界大戦でのジェノサイドをみなが覚えているのは、全員がそこに関係していたからだ。では、ルワンダのジェノサイドには、実のところ誰が関与していた? 正しく理解している人がいるかどうか分からないが、ルワンダではわずか3ヵ月半の間にユーゴスラヴィア紛争をすべてを合わせたよりも多くの人が殺され、怪我を負い、追放されたんだ。そのユーゴスラヴィアには我々は6万人もの兵士を送り込み、それだけでなく西側世界はすべて集まり、そこに何十億ドルも注ぎ込んで解決策を見出そうと取り組みを続けている。ルワンダの問題を解決するために、正直なところ何が行われただろうか? 誰がルワンダのために嘆き、本当にそこに生き、その結果を生き続けているだろうか? だから、私が個人的に知っていたルワンダ人が何百人も、家族ともども殺されてしまった――見飽きるほどの死体が――村がまるごと消し去られて…我々は毎日そういう情報を送り続け、国際社会はただ見守っていた…。 この発言を行った後の1997年9月、ダレール元司令官はベルギーの平和維持軍兵士10人が殺害された件についてベルギー議会で証言を要求されたが、コフィー・アナン国連事務総長により証言は禁じられた。それから3年後の2000年、ダレール元司令官は公園で酒と同時に睡眠薬を大量服用して自殺を図ったものの、昏睡状態になっていたところを発見され死を免れた。
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