国際連合ルワンダ支援団の動向とは? わかりやすく解説

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国際連合ルワンダ支援団の動向

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 00:14 UTC 版)

ルワンダ虐殺」の記事における「国際連合ルワンダ支援団の動向」の解説

詳細は「国際連合ルワンダ支援団」を参照 国際連合ルワンダ支援団 (UNAMIR) の活動は、アルーシャ協定時点から後のジェノサイドに至るまで、資源乏しいこのアフリカ小国揉め事巻き込まれることに消極であった大多数国連安全保障理事会メンバーにより妨げられ続けられた。そんな中ベルギーのみが国際連合ルワンダ支援団対し確固としたマンデート与えることを要求していたが、4月初旬大統領警護行っていた自国平和維持軍兵士10人が殺害されると、同国ルワンダでの平和維持任務から撤退した。なお、ベルギー部隊練度高く装備優れていたため、同国撤退大きな痛手となった国際連合ルワンダ支援団側は、せめて同部隊装備ルワンダ残していくよう依頼したが、この要求拒絶された。 その後国連とその加盟国現実から著しく外れた方針を採り始めた国際連合ルワンダ支援団ロメオ・ダレール以前から人員増強強く要求しており、ジェノサイドルワンダ各地開始され4月半ば時点にも事態収拾のための人員要求行ったが、これらは全て拒否された。さらに、虐殺進行している最中に、ダレールは国連本部から"国際連合ルワンダ支援団ルワンダにいる外国人避難のみに焦点当てた活動を行うよう"指示受けた。この命令変更により、2000人のツチ避難していたキガリ公立技術学校を警護していたベルギー平和維持部隊は、学校周囲ビール飲みながらフツ・パワープロパガンダ繰り返し叫ぶ過激派フツ取り囲まれている状況であったにもかかわらず、同施設警護任務放棄して撤収したその後学校取り囲んでいた武装勢力学校内突入し数百人の児童を含むおよそ2000人が虐殺された。さらに、この事件から4日後には、安全保障理事会国際連合ルワンダ支援団280人にまで減らすという国連安保理決議第912号決定した。その一方で国連安保理同時期に起こったボスニア紛争に対して積極的な活動行っていた。ルワンダ平和維持軍削減決めた国連安保理決議第912号可決したのと同じ日に、ボスニア内における安全地帯防衛堅持確認した国連安保理決議第913号を通過させたことから、差別的観点からヨーロッパアフリカよりも優先させたとの指摘なされている。 ダレール少将国連から与えられ停戦監視のみを目的とするマンデート無視して住民保護行い4月9日には国連平和維持活動局本部から「マンデートに従うよう」指示受けたが、その後マンデート無視して駐屯地逃れてきた避難民保護したしかしながら平和維持軍人員の完全な不足とマンデートから積極的な介入行動行えず、目の前で殺害されようとする避難民助けられず、平和維持軍増員と強いマンデートを望むダレールの要求拒絶された。 1999年ルワンダ虐殺当時アメリカビル・クリントン大統領は、アメリカのテレビ番組の『フロントライン』で、"当時アメリカ政府地域紛争自国巻き込まれることに消極的であり、ルワンダ進行していた殺戮行為ジェノサイド認定することを拒絶する決定下したことを後に後悔した"旨を明らかにした。この、ルワンダ虐殺から5年後行われたインタビューにおいて、クリントン大統領は「もしアメリカから平和維持軍5000送り込んでいれば、50万人の命を救うことができたと考えている」と述べた4月6日にハビャリマナ大統領死亡した後、新たに大統領へ就任したテオドール・シンディクブワボ(英語版率いルワンダ政府は、自国への国際的な非難最小限にするために活動した当時ルワンダ政府安全保障理事会非常任理事国であり、同国大使は「ジェノサイドに関する主張誇張されたものであり、我が政府虐殺食い止めるためにあらゆる手を尽くしている」と主張しその結果として国連安全保障理事会ジェノサイドの語を含む議決を出さなかった。 その後1994年5月17日になって国連は「ジェノサイド行為が行われたかもしれない」ことを認めた。この5月半ばには、既に赤十字により50万人ルワンダ人が殺害されたとの推定なされていた。国連大部分アフリカ国家軍人からなる5500人の兵員ルワンダへ送ることを決定したが、これは虐殺勃発以前にダレールが要求したものと同規模であった兵員増強可否に関して5月13日投票決定する予定であったが、アメリカマデレーン・オルブライト大使活動により4日間引き伸ばされ17日まで投票延期された。さらに国連アメリカ50台の装甲兵員輸送車の提供を求めたが、アメリカ国連に対して輸送費用650ドルを含む計1500ドルリース費用として要求した結果として国連部隊の展開コスト面や装備の不足などを原因として遅延し5月17日国連アメリカ主張した通りに非常にゆっくりと展開した国際連合ルワンダ支援団UNAMIR)は1994年7月ルワンダ愛国戦線勝利を納めた後、同年5月時点可決済みであった国連安保理918に従って人員数を5500人へ増強しUNAMIR 2)、1996年3月8日までルワンダ活動した一方で司令官であったダレールは、虐殺発生事前に知りながら防止できなかったこと、虐殺間中積極的な活動行えなかったことに対す自責の念から任務続行不可能となり、虐殺終結後1994年8月司令官離任したその後カナダ帰国後もうつ病PTSD悩まされ続けていたという。また、帰国後に出演したカナダテレビ番組では以下のように述べた。 私にとって、ルワンダ人の苦境対す国際社会とりわけ西側諸国の無関心冷淡さ悼む行為はまだ始まってもいない。なぜなら、基本的には、非常に兵士らしい言葉遣い言わせもらえば誰もルワンダのことなんか知っちゃいないからだ。正直になろうじゃないかルワンダジェノサイドのことをいまだに覚えている人は何人いる? 第二次世界大戦でのジェノサイドをみなが覚えているのは、全員がそこに関係していたからだ。では、ルワンダジェノサイドには、実のところ誰が関与していた? 正しく理解している人がいかどうか分からないが、ルワンダではわずか3ヵ月半の間にユーゴスラヴィア紛争をすべてを合わせたよりも多くの人が殺され怪我負い追放されたんだ。そのユーゴスラヴィアには我々は6万人もの兵士送り込みそれだけでなく西側世界はすべて集まり、そこに何十ドル注ぎ込んで解決策見出そう取り組み続けている。ルワンダ問題解決するために、正直なところ何が行われただろうか誰がルワンダのために嘆き本当にそこに生きその結果生き続けているだろうか? だから、私が個人的に知っていたルワンダ人が何百人も、家族ともども殺されてしまった――見飽きるほどの死体が――まるごと消し去られて…我々は毎日そういう情報送り続け国際社会はただ見守っていた…。 この発言行った後の1997年9月、ダレール元司令官ベルギー平和維持軍兵士10人が殺害された件についてベルギー議会証言要求されたが、コフィー・アナン国連事務総長により証言禁じられた。それから3年後2000年、ダレール元司令官公園で酒と同時に睡眠薬大量服用して自殺図ったものの、昏睡状態になっていたところを発見され死を免れた

※この「国際連合ルワンダ支援団の動向」の解説は、「ルワンダ虐殺」の解説の一部です。
「国際連合ルワンダ支援団の動向」を含む「ルワンダ虐殺」の記事については、「ルワンダ虐殺」の概要を参照ください。

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