名岐鉄道との合併・名古屋鉄道成立
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「愛知電気鉄道」の記事における「名岐鉄道との合併・名古屋鉄道成立」の解説
前述した旧・名古屋鉄道との合弁事業による名古屋市内への地下鉄道による路線延伸が構想された当時、両社の合併案が浮上した。愛電社長の藍川、旧・名古屋鉄道社長の富田重助とも、地下鉄道開通後の両社の合併の可能性を否定しなかったが、地下鉄道計画が実現しなかったことにより合併案も自然消滅した。さらに、1932年(昭和7年)頃には、愛電・名岐・瀬戸電気鉄道・伊勢電気鉄道の4社を対象とした名古屋圏を中心とする事業者統合案が浮上、当時名古屋市商工会議所副会頭を務めた青木鎌太郎による斡旋が行われたものの、こちらも構想段階に留まった。 その後、当時の鉄道大臣であった三土忠造によって1933年(昭和8年)9月に設立された「内閣交通審議会」における審議により、細分化した地域交通事業者の統合による企業体力強化ならびに交通統制が国策として推進されることとなった。それを受けて、鉄道同志会(現・日本民営鉄道協会)は地域別の交通事業者の統合に関する特別委員会を開催し、愛知・岐阜地方の交通統制については愛電と名岐が担当委員として調査を行った。その結果、愛電・名岐の2社を統合し愛知・岐阜地方(中京圏)における基幹事業者とすることが適当であるとの結論に至った。 愛知電気鉄道名岐鉄道公称資本金(払込額)17,091,050円(14,869,175円) 19,001,000円(14,874,000円) 社債発行額14,500,000円 12,000,000円 借入金2,260,000円 0円 総資産額36,119,636円 32,960,371円 鉄軌道収入1,580,374円 1,465,404円 総収入1,629,052円 1,681,306円 利益金427,795円 419,912円 配当率5 % 従業員723名 1,570名 営業キロ122.2 km 211.8 km 保有車両数353両 401両 愛電・名岐両社の1934年(昭和9年)下半期における資産および収益内容は右表の通りである。このように、愛電が豊橋線建設などによる多額の債務を抱えていたのに対して、名岐は無借金経営を行っていた点を除くと、両社は経営規模・財務内容ともほぼ同等であり、統合に際しては様々な困難が伴うものと予想された。また名岐側は当時社長職にあった跡田直一が病気療養中であったという事情もあり、両社とも合併を積極的に推進する意図はなかったとされる。一方で、かねてから両社の統合を希望した名古屋財界を中心として合併を推進する動きが外部より強まり、愛電・名岐とも国策として推進された事業者統合の時流に抗うことは困難と判断するに至った。青木や当時の名古屋市長であった大岩勇夫らの斡旋を受け、愛電側は藍川が、名岐側は跡田の代理人として取締役の神野金之助がそれぞれ代表となり、1934年(昭和9年)10月頃より合併に関する内交渉が開始された。 翌1935年(昭和10年)1月に大岩による正式な合併勧告を受け、愛電は同月21日に開催された重役会において、合併に合意し全てを藍川に一任することを決議した。また名岐においても、病床にあった跡田より「合併やむなし」との同意を得て、同月23日に開催された重役会において合併に合意する旨決議された。これを受けて、同月30日より名古屋商工会議所において合併裁定案の作成会議が数回にわたって開催され、青木・大岩のほか、愛知県知事の篠原英太郎、鉄道省名古屋鉄道管理局長の須田博、名古屋市商工会議所会頭の岡谷惣助の計5名が仲介人として同会議に出席した。会議においては合併後の社長を愛電・名岐のどちらから選出するかが焦点となり、特に名岐側は「自社が愛電を合併する」という立場を崩さず、跡田を社長とすることを強く求めた。そのため当初は、跡田を取締役会長とし、社長には藍川が就任する折衷案が検討されたが、最終的には藍川が跡田を社長に推して自らは副社長に就任する旨を表明し、解決した。 1935年(昭和10年)2月14日に両社へ裁定書が下付され、翌15日に愛電・名岐とも裁定に応諾することを重役会にて決議、同日午後に愛電側から藍川以下重役5名、名岐側から常務取締役の山田芳市以下重役4名が商工会議所に出向き、仲介人へ承諾書を提出した。両者の直接折衝の末、存続会社を名岐として愛電は解散すること、合併比率は1対1の対等合併とすること、新会社の役員数は愛電・名岐出身者の双方同数とすること、愛電の保有資産は全て名岐へ継承されること、愛電従業員は待遇・報酬とも愛電在籍当時の条件を維持し勤続年数も愛電当時からの通算扱いとすることなどについて正式に合意し、同日に合併仮契約を締結した。合併後の社名については、愛電側が「日本中部鉄道」「中部日本鉄道」「中部鉄道」を主張したのに対して、名岐側は「名岐鉄道」ないし同社の旧社名である「名古屋鉄道」を主張して平行線を辿ったが、同年5月5日に藍川・神野両代表者の折衝により合併後の社名を「名古屋鉄道株式会社」とすることを正式決定した。 管轄省庁へ提出した合併申請は1935年(昭和10年)7月25日付で認可され、同年8月1日をもって両社は合併し、愛知電気鉄道株式会社は解散した。同時に名岐は社名を名古屋鉄道(名鉄)と改め、資本金3629万1050円(うち払込資本金2984万3175円)・営業キロ360.6 km・従業員約2,400名を擁する大事業者として発足した。なお、合併後の社長に内定していた跡田が同年7月17日に死去したため、合併当日に開催された役員会においては藍川が名古屋鉄道の初代社長に選任された。 合併後、愛電が保有した常滑線・豊橋線・西尾線など各路線は「東部線」と総称された。東部線は名岐由来の「西部線」と比較して直線区間が多く、使用する軌条は37 kgの重軌条(西部線は主に30 kg軌条を使用)と高規格で敷設されており、高速鉄道路線としての設備条件を充足し運転・保守の両面で相対的に優れていた。その技術水準の高さは後年の名鉄社内においても高く評価されたという。 また合併当初は、列車の運行および車両の管理については愛電由来の東部線と名岐由来の西部線で管轄部署が分かれており、1937年(昭和12年)に名鉄成立後における初めての新型車両として東部線・西部線にそれぞれ導入された流線形車両2形式のうち、東部線用の3400系は愛電出身の開発陣によって設計された。同形式は「愛電と名岐両社の車両設計の集大成」と評され、流線形状の前頭部と車体下部全周にわたって設置されたスカートを特徴とする、優美な外観と高い走行性能を兼ね備えた優等列車用電車であった。
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