前史/江戸時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 23:04 UTC 版)
上下定分の理を中心とする朱子学が幕府の正学となった。 1609年~1612年にかけて、岡本大八事件が起こり、1612年~1613年にかけて、西洋道徳であるキリスト教を禁じる禁教令が公布された。 1627年または1628年、中国において、仏教徒の鐘始聲が反キリスト教本の「闢邪集」を著し、その中でキリスト教は仏教の粃糠を陰(ひそ)かに竊(ぬす)んだものであるとの説を立てた(仏教とキリスト教)。この本は、後に日本へと伝わった。 1634年より、寺請制度が始まり、仏教が大衆化する。 1637年より、キリシタンを中心に島原の乱が起きる。 1644年、明朝が滅亡し、大順が誕生するものの、清により倒される。 1710年、儒学者の貝原益軒により、教育論の書である和俗童子訓が執筆された。 1715年頃、儒学者の新井白石は、西洋紀聞において西洋道徳であるキリスト教を批判し、鐘始聲の説は我を欺かないと述べた。また、中国に於いて明朝の滅びた理由の一つにキリスト教が挙げられていたことを引き、日本のキリスト教禁止は過防ではないとした。ただし、仏教の大衆化によってキリスト教を治めることについては、「虎をすすめて狼を駆る」ということになる恐れがなくもないと述べた。 1715年、道徳の乱れを理由に執筆された、気質物の浮世草子である世間子息気質が出版された。 人生れて八歳より小学に入り、十有五にして大学にいたる古への法なり、今時の子供を見るに八歳にて煙管を咥へ、十有五にして死一倍をかつて傾城を請生す魂胆、是人たるものゝ道と思へり、宣なる哉、教ずして人生れながらに知ものにあらざれば、若子様ともてはやされて我侭に育ち、無性に高ふとまつて己が家業に心を寄せるは、至らぬかなと賎しめ、諸芸色遊びにかゝつて放埓に身を持つを、銀持の風俗は斯くこそと思ひ込んで、自ら非を改むる心はなくて、分際不相応の遊びに親の譲り銀を皆になし、昨日迄は大臣と呼し男、今日は太鼓の針立坊となつて、老て辛労する人あまたなり、是皆幼少より父子の礼儀たがひ、親は子に孝行をつくし、身の脂を出して設けてあてがひ、子は親を不粋なりと見くだし、今あの堅さでは世間はつとまりませぬ、随分異見致せど、誰に似てか片意地で直されぬに困ると、彼方此方に変つたる世間の息子気質、様々なる事を書き集めて、すぐに題号として梓に彫め、孝にすゝむる一助ならんかし — 世間子息気質 序 また、世間子息気質の中の一つに、実学を疎かにし、儒教を学ぶことにより身を崩す商人の息子の話がある。 親父尤もと点頭(うなず)き子息を呼び付け、汝学問立をして、商売の道を脇にするのは大きなる誤り、其上儒道を学ぶ者が、夕べも茶屋へ行きて夜半八つに帰り、己れが酒機嫌に任せ、湯の水のと寝て居る家来共を起し、たわけを尽すが儒者の教へか、論語読みの論語知らずめ、重ねて書物を止にして、帳合を大事に掛けよと、額に皺を寄せて叱からるゝ詞の下から、子息は又物知顔を止めず、父為レ子隠子為レ父隠直在二其中一といふは孔子の語なり、父の罪をば子として隠し、子の罪をば父として隠すは、親子自然の道理にして、人の心の至極せる所なり、道理に従ふを直とす、然るに今手代大勢聴く前にして、茶屋狂ひする子の罪を顕はし玉ふは道理に背むけり、如何んぞ直とせんやと云へば、親父苦々しい顔にて、猪口か皿か知らぬが其の陳ぷん漢ぷんが家業の妨げじや、仮名で算盤稽古召されよと、教訓を致されぬ、 — 世間子息気質 二之巻 第一 異見はきかぬ薬心を直さぬ医者形気 1716年、徳川吉宗が8代将軍となり、実学を奨励して、実学として蘭学を取り入れたが、西洋道徳であるキリスト教は排除した。 1739年、商人の石田梅岩が都鄙問答を著して、石門心学が広まった。 1790年、幕府は、風俗の崩れを理由に寛政異学の禁を行い、儒教の古学を禁止し、朱子学を復興した。 幕末まで、開国論者は和魂洋才の思想を持っていた。 佐久間象山「東洋道徳・西洋芸術のふたつを学び人民に恩恵を与え国恩にむくいる」 橋本左内「器械芸術は彼にとれ、仁義礼智は我に存す」 横井小楠「堯舜孔子の道を明らかにし、西洋器械の術を尽くさば、何ぞ富国に止まらん、何ぞ強兵に止まらん、大義を四海に布かんのみ」 なお、西洋においては、自然科学と合理主義の台頭により、啓蒙思想が広まり、キリスト教が変容していった。
※この「前史/江戸時代」の解説は、「修身」の解説の一部です。
「前史/江戸時代」を含む「修身」の記事については、「修身」の概要を参照ください。
- 前史/江戸時代のページへのリンク