前史・尾張徳川家の什宝とは? わかりやすく解説

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前史・尾張徳川家の什宝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/22 22:31 UTC 版)

徳川美術館」の記事における「前史・尾張徳川家の什宝」の解説

1910(明治43)年は「名古屋開府300年にあたり祝賀行事一環として尾張徳川家同年4月9日から3日間、名古屋で、初代義直ゆかりの品中心とした什器展覧会開催し、また同年3月-6月名古屋市門前町愛知県商品陳列館開催され新古美術展覧会書画器物出品したそれ以降尾張徳川家什宝は『国華』誌でたびたび取り上げられるようになった。 1912(明治45)年4月には、東京帝国大学京都帝国大学文科大学教授講師名古屋・大曽根邸を訪問して什宝観覧同行した国華社什宝写真撮影し同年5月18日東京帝国大学文科大学集会所でこの写真展示会が行なわれ、反響呼んだ。 また1915年5月29日には、東京帝国大学山上御殿源氏物語絵巻3巻など尾張徳川家所蔵絵巻物6点展覧が行なわれ、約700人が観覧訪れた。 こうして什宝展覧会がたびたび話題呼んだことで、尾張徳川家19当主義親は、什宝保存公開必要性感じるようになり、美術館の設立構想したとみられている。 1910年代後半尾張徳川家拠点名古屋から東京移して名古屋土地家屋処分拠点事業整理縮小進め名古屋における同家拠点大曽根別邸集約されることになった同家御相談人片桐助作は、1910年から1915年にかけて未鑑定品を中心に同家什宝の整理進めた1920年1月12日義親新聞通じて大曽根邸の敷地尾張徳川家宝物公開する博物館設立する構想発表予算は50-100万円で、収蔵点数は約1万点、刀剣が多いと見積もられていた。1921年には、片桐整理結果を基に、重複品・不要品とされた什宝全体10-15%)が競売出され売上総額57万円博物館設立準備金として運用された。

※この「前史・尾張徳川家の什宝」の解説は、「徳川美術館」の解説の一部です。
「前史・尾張徳川家の什宝」を含む「徳川美術館」の記事については、「徳川美術館」の概要を参照ください。

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