前史、ヤルー光学とは? わかりやすく解説

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前史、ヤルー光学

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/01/08 16:05 UTC 版)

アイレス写真機製作所」の記事における「前史、ヤルー光学」の解説

前身1949年設立され東京都港区桜田町現西新橋6番地にあったヤルー光学(Yallu Optical Co. Ltd )である。 三橋剛は第二次世界大戦中陸軍造兵廠で兵技中尉として各種光学兵器生産修理監督任務担当し戦後その人脈から岡田光学ワルタックス販売等をしていた。ある時新橋カメラ店中古コンタフレックス10万円で販売されているのを見てこれと同等製品作れば売れると直感しすぐさま設計着手1947年には二眼レフカメラ設計没頭していたところ、岡田光学精機(後の第一光学社長岡田至弘から金谷相吉という韓国人企業家紹介され資金を得、カメラ製造乗り出すことになった得た資金中古旋盤を1台購入部品の調達造兵廠時代人脈生かしてレンズ小西六(後コニカ経てコニカミノルタ)のヘキサー50mmF3.5、シャッターはセイコーシャを入手した事務所新橋田村町に置き、会社名ヤルー光学カメラはヤルーフレックスと命名された。ヤルー金谷相吉故郷にある鴨緑江中国名由来する1947年7月にはレントゲンフィルム生産優先するため連合国軍最高司令官総司令部GHQ)からロールフィルム生産禁止命令出て120フィルム127フィルム使用するカメラ需要減退していたことも、このカメラの開発後押しすることになった1949年発表されアサヒカメラ復刊号となる1949年10月号から1950年4月号まで計7回の広告出しパンフレットまで用意したが、生産販売には移行しなかった。当時販売されていたどのカメラより構造が複雑で、資材インフレ進んでいた当時もし本格生産移行していれば作っただけ赤字増えただろうと萩谷剛は推測している。また1949年にはロールフィルム生産禁止解除されていた。 会社は一旦整理された。

※この「前史、ヤルー光学」の解説は、「アイレス写真機製作所」の解説の一部です。
「前史、ヤルー光学」を含む「アイレス写真機製作所」の記事については、「アイレス写真機製作所」の概要を参照ください。

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