前史 - 週末温泉急行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 02:10 UTC 版)
「小田急ロマンスカー」の記事における「前史 - 週末温泉急行」の解説
1927年4月1日に開業当初の小田急は、昭和初期の不況の影響で沿線は一向に発展せず、もともと過大な初期投資に加えて乱脈経営が祟ったこともあり、厳しい経営状態を余儀なくされていた。1929年4月1日に江ノ島線が開業してからは夏季の海水浴客輸送の時に運賃を往復で5割引にするなどして増収策を図り、全車両をフル稼働させて対応していた。 一方、あまり積極的ではなかったものの、小田原線も箱根への観光客輸送を目的の1つとしており、増収策の一環として、週末のみ新宿から小田原までをノンストップで運行する列車が立案された。小田急ではこの列車の車内では、沿線案内をレコードで流し、合間に「小田急行進曲」と「小田急音頭」を流すことを発案、当時新宿に存在した娯楽施設のムーランルージュ新宿座に「小田急行進曲」「小田急音頭」の製作を依頼し、沿線案内の吹き込みはムーランルージュ新宿座の看板女優であった明日待子が担当した。78回転盤(SPレコード)6枚組に仕上がったレコードが完成し、実際に走行中の車内でテストしたが針が飛んでしまい、この試みは失敗であった。 ともあれ、1935年6月1日から、新宿 - 小田原間をノンストップで結ぶ「週末温泉急行」の運行を開始した。この急行には車両はクロスシートを装備した便所付の車両であった101形などが使用され、新宿 - 小田原間を90分で結んだ。運行は土曜日の下り列車のみで、帰りとなる日曜日は通常の急行列車が運行された。これが小田急ロマンスカーのルーツとなる列車であるが、陰では「おしのび電車」などと言われていたという。 しかし、1941年12月に太平洋戦争が始まり、1942年1月から週末温泉急行は運休となり、同年4月にはダイヤ上の設定もなくなった。小田急自体も、同年5月には東京横浜電鉄と合併し東京急行電鉄(大東急)となった。
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