内閣官制
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内閣官制 | |
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![]() 日本の法令 |
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法令番号 | 明治22年勅令第135号 |
種類 | 行政組織法 |
効力 | 廃止 |
公布 | 1889年12月24日 |
主な内容 | 内閣の組織、内閣総理大臣の職権など |
関連法令 | 大日本帝国憲法、日本国憲法、内閣法など |
条文リンク | 官報 1889年12月24日 |
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内閣官制(ないかくかんせい、明治22年12月24日勅令第135号)は、1889年(明治22年)に定められた日本の勅令。1947年(昭和22年)5月3日廃止。
概要
内閣官制は、同年に公布された大日本帝国憲法の行政各部に関する定めに沿う内容とされている。また、内閣官制が制定されたことにより、1885年(明治18年)12月22日に発出された明治18年太政官達第69号及び内閣職権(明治18年12月22日太政大臣公爵三条実美達)は実効性を喪失した。
大日本帝国憲法は、同第55条に「國務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス」と定められたが、「内閣」や「内閣総理大臣」については規定されなかった。行政権は国務各大臣の輔弼により天皇が自ら行う「大権」とされ、内閣は国務各大臣の協議と意思統一のための合議体にすぎないものとされた。これにより、「内閣職権」に規定された内閣・国務大臣・内閣総理大臣について、再度規定することが必要とされた。
内閣官制の内容は、ほぼ内閣職権と同様の条文となっているが、内閣総理大臣の権限は弱められた。同第2条の「内閣総理大臣ハ各大臣ノ首班トシテ機務ヲ奏宣シ旨ヲ承ケテ行政各部ノ統一ヲ保持ス」において、この「首班」とは「同輩中の首席(Primus inter pares)」を意味すると解された。
1947年(昭和22年)5月3日、日本国憲法が施行され、同日に内閣法(昭和22年法律第5号)が施行されたことにより、内閣官制は「内閣官制の廃止等に関する政令」(昭和22年5月3日政令第4号)で廃止された。
内閣官制中改正ノ件
1907年(明治40年)2月1日、公文式の廃止と公式令の制定に伴って、内閣官制が改正された。この改正では、第4条にあった「勅令」副署規定を「公式令」に移し、公文式にあった内閣総理大臣の閣令制定権をここに移した。その際、各省大臣の単独副署の制度が廃止され、全ての「勅令」に内閣総理大臣が副署することになった。また、第4条ノ2において、内閣総理大臣の地方官庁に対する職権を明確にした。ともに内閣総理大臣の権限を強化するものであった。
関連項目
内閣官制
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1889年(明治22年)2月11日に大日本帝国憲法(明治憲法)が発布され、同年12月24日には、「内閣職権」を改定する形で「内閣官制」が制定された。 明治憲法には内閣総理大臣や内閣に関する記述はなく、国務大臣について規定されているのみだった。同憲法第4章第55条には「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス」、同条第2項には「凡テ法律勅令其ノ他国務ニ関ル詔勅ハ国務大臣ノ副署ヲ要ス」と記述されていた。同憲法下での内閣総理大臣や内閣は「内閣官制」を法的根拠として存在した。また明治憲法第4章第56条には「樞密顧問ハ樞密院官制ノ定ムル所ニ依リ天皇ノ諮詢ニ應ヘ重要ノ國務ヲ審議ス」と天皇が国務(国政)を枢密院へ諮問することが記述されていたため、国政の意思決定機関は「枢密院」であり、内閣はその認可をもって国政を遂行する機関として位置付けられていた。ただ、内閣を構成する各国務大臣は枢密院の顧問官の議席を有し表決に参加することが出来たため、全く別々の意思決定組織という形でもなかった。 法律上は、内閣総理大臣や国務大臣は帝国議会(下院:衆議院、上院:貴族院)に対して直接責任を負うことはなかった。また、内閣官制下の内閣の権限は内閣職権下の内閣よりも弱小化されており、内閣総理大臣は「各大臣ノ首班トシテ機務ヲ奏宣シ旨ヲ承ケテ行政各部ノ統一ヲ保持ス」(第2条)とのみ定められ、具体的な権限などは定められなかった。そのため、内閣総理大臣は、内閣の中で「同輩中の首席(primus inter pares)」としての地位を占めるに過ぎず、他の国務大臣罷免の権限がないため、いわゆる「閣内不統一」は直ちに内閣総辞職に結びついた。憲法上は各国務大臣はそれぞれ自身の任務について天皇に助言を行い、天皇が最終的に行政権を行うという建前であった。 1907年(明治40年)には内閣官制が一部改正され、内閣総理大臣が閣令を制定する権限を定め、従来の国務大臣の単独副署を無くし、全ての勅令に内閣総理大臣との連署を定めるなど、行政府の長たる内閣総理大臣の権限強化が図られた。 内閣総理大臣は、天皇が任命したが(大命降下)、具体的な人選は天皇の諮問を受ける元老や重臣会議など憲法外の機関・人物の合議による場合が多かった。大正時代から昭和時代初期(いわゆる「大正デモクラシー」期)には、帝国議会下院の衆議院で最多議席を占める第一党の政党党首が内閣総理大臣に就任する「憲政の常道」と呼ばれる慣例が確立し、政党内閣時代とも呼ばれるが、元老が衆議院議員総選挙の結果を参照した結果、第一党党首を推挙したという形式は守られた。 また、組閣は、内閣総理大臣が国務大臣の候補を自由に人選し、天皇が任命することとなっていたが、明治の一時期と昭和初期から第二次世界大戦終戦までの間、軍部大臣(陸軍大臣及び海軍大臣)については現役の大将・中将をもって充てるという「軍部大臣現役武官制」が採用されていた。武官の階級や現役・退役・予備役の別は、軍部が独自に決めることとなっていたため、結局、軍部が推薦する人物を軍部大臣に充てるほかなく、内閣総理大臣の人選の範囲は限定されることになった。さらに、内閣が軍部の意に沿わない決定などを行った場合には、軍部大臣を退却させて代替の人物を送らず、ひいては内閣総辞職に至らせることも出来るため、軍部の意向が政権に与える影響は大きかった。 この他にも、大日本帝国陸軍・大日本帝国海軍は、軍政の面では国務大臣の下にあったものの、軍令の面では大元帥でもある天皇に専属する「統帥権」(明治憲法第11条)を直接補佐することとされ、軍部大臣や参謀総長(陸軍:参謀本部)・軍令部総長(海軍:軍令部)などには帷幄上奏の権限も与えられたため、陸軍省及び海軍省を有する内閣は事実上、軍事に関する政策に関わることは難しかった。 なお、日本国憲法下の現在の防衛大臣(旧:防衛庁長官)については、自衛隊(陸上・海上・航空)の服務経験者(他国における退役軍人)は可能ではあっても、幹部クラス含む現役の自衛官ないし自衛隊員が就任することはなく、他の大臣と同様、日本国憲法第66条の規定により、文民統制(シビリアンコントロール)の観点から文民が任命されている。 詳細は「内閣官制」を参照
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