保存の試み
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「エバーグレーズの排水と開発」の記事における「保存の試み」の解説
詳細は「エバーグレーズ国立公園」を参照 エバーグレーズのことを心配する環境保護主義者は、マイアミが若い都市だったので少数意見者だった。南フロリダで最初かつ最も熱心な博物学者はチャールズ・トーリー・シンプソンであり、スミソニアン博物館を退職して53歳の1905年にマイアミに移って来た。シンプソンは「ビスケイン湾の賢人」とあだ名され、マイアミ周辺で見られる熱帯性植物の生態について数冊の著作を著した。彼の裏庭には熱帯性硬木の叢林があり、推計で約5万人の人々にそれを見せていた。開発に関しては議論を避ける傾向にあったが、「フロリダの装飾的ガーデニング」には「人類はどこでも、この自然が浪費した善良で美しいものを消費し、破壊する狂気の願望がある。」と記した。 エバーグレーズの一部を保護する考えは1905年に起こっていたが、それが結実したのは1928年、マイアミの景観デザイナーのアーネスト・F・コーがエバーグレーズ熱帯国立公園協会を設立した時だった。これは1934年にアメリカ合衆国議会で国立公園と宣言されるだけの支持を受けたが、世界恐慌の時代だったので、公園に提案される200万エーカー (8,100 km2) を買収するだけの金が無かった。実際に国立公園となったのは、13年後の1947年12月6日のことだった。 国立公園指定の1か月前、「マイアミ・ヘラルド」の元編集者でフリーランスのマージョリー・ストーンマン・ダグラスが、その最初の著作である『エバーグレーズ: 草の川』を出版した。彼女は5年間地域を調査した後、かなりの詳細にわたって南フロリダの歴史と生態系を記述し、エバーグレーズは淀んだ湿地ではなく川だと特徴づけた。ダグラスは後に「私の仲間のアート・マーシャルが、『草の川』という言葉で、皆の知識を変え、エバーグレーズが何を意味するのかについて世界を教育したと言っていた」と記していた。その最後の章は「第11時」と題され、エバーグレーズは死に近づいているが、その呪いは逆転もできると警告した。その初版は発売から1か月で売り切れた。
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保存の試み
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「動態保存中の蒸気機関車」も参照 こうして姿を消していった蒸気機関車だが、蒸気機関車を近代産業遺産として保存する動きも出てくるようになる。また、姿を消していく蒸気機関車を追うように1970年代前半に全国でSLブームが起こり、函館本線目名 - 上目名間(現・廃止)や伯備線布原信号場(現・布原駅)などに代表される撮影ポイントに多くのファンが押し寄せるようになり、まったく鉄道に興味のない人まで蒸気機関車を追いかけるようになったのである。そしてこうした動きを受け、ついに保存活動に動き出す。そのはしりとなったのが、1970年(昭和45年)8月に大井川鉄道(現・大井川鐵道)が西濃鉄道から2109(2100形)を譲り受け、同年11月に千頭 - 川根両国間で開始した動態保存運転である。その後クラウス15, 17や1275(1275形)などの動態保存運転も行なった同社は、国鉄から蒸気機関車が消滅した1976年7月9日、ついに蒸気機関車の本線復活運転を開始した。これが、C11 227によるかわね路号である。この復活蒸気機関車運転は大人気を博し、その後はC56 44を含む蒸気機関車を動態復元し、現在も実施しているほか、1987年には、同じく文化遺産保護活動を行なう日本ナショナルトラストが購入したC12 164も動態復元した。 一方、国鉄も1972年(昭和47年)の鉄道100年を契機に蒸気機関車の恒久的な動態保存に乗り出し、同年10月に京都駅近くに梅小路蒸気機関車館を開館する。開館当初は16形式17両のうち15両に車籍があり、13両が有火状態であった。この保存機を用いて東海道本線など都市近郊での運転実施が計画され、開館直後から1974年までC62形やC61形を用いた「SL白鷺号」が京都 - 姫路間に行楽シーズンに運行されている。しかし、その後労使問題の深刻化などの理由から保存運転は中断され、その間に営業用の蒸気機関車が姿を消すこととなった。 財政悪化が深刻化していた国鉄は、営業用蒸気機関車の全廃という状況を受け、中断していた保存蒸気機関車の運転再開を計画した。前回同様、運行線区として東海道本線など都市近郊での実施を予定していたが、1976年9月4日に「京阪100年号」として京都 - 大阪間で蒸気機関車の運転を行なった際、鉄道撮影を行なう観客のマナーの悪さから小学生が機関車に接触して死亡するという事態になった(詳しくは京阪100年号事故を参照)こともあり断念、地方線区での恒久的実施に方針を切り替えた。これに関しては、北海道の湧網線(現・廃止)なども運行路線の候補に上げられたが、新幹線に接続し、観光地も多い山口線に白羽の矢が立った。そして1979年(昭和54年)8月1日、国鉄復活蒸気機関車第1号となるC57 1による「SLやまぐち号」が運転を開始した。その後、蒸気機関車復活運転計画は国鉄再建の影響もあってか進行せず、結局国鉄時代は同列車が唯一のものとなってしまったが、1987年の国鉄分割民営化によって一気に加速する。さらに民鉄でも蒸気機関車復活運転が次々と行なわれるようになった。そして国鉄線上から蒸気機関車が消滅してから30年以上が経過した現在、各地で蒸気機関車復活運転が行なわれている。
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