保存を巡る動き
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/03 14:51 UTC 版)
「シギショアラ歴史地区」の記事における「保存を巡る動き」の解説
すでに見たように、シギショアラの景観保存は共産主義体制の崩壊後に本格化した。まず問題となったのが、所有権である。共産主義体制において公有物となっていた建築物の数々について、脱公有化を行うことと景観保存との兼ね合いが問題となった。 その結果、一部の教会などの重要な記念建造物群は引き続き公有物とされ、私有が認められた民家についても、都市景観を保持する上で重要な赤い屋根とファサードなどについては、規制が検討されることになった。 1990年代以降、修復も本格化し、丘の上の教会についても数年がかりの大規模な修復工事が行なわれた。 景観保護に関連する継続的な問題としては人口比の変化が指摘されている。シギショアラ歴史地区は伝統的にはトランシルヴァニア・ザクセン人が築き上げてきた街区だが、冷戦終結後にドイツへ移住する人々が増加し、ルーマニア人住民が増えた。こうした人口構成の変化が、一部教会の荒廃など、歴史的な街並みの保存にも悪影響をもたらしているとする指摘がある。 また、他の世界遺産物件でもしばしば問題となる観光業との関わりも、警官保護との関連で摩擦を起こしたことがある。2001年11月には、シギショアラ近郊にドラキュラを主題とする巨大テーマパークを建設する計画が持ち上がった。提案したのは当時のルーマニア観光相ダン=マテイ・アガトンである。 この計画には様々な方面から反対意見が出されたが、その中でも重きをなしたのが、シギショアラ歴史地区の景観保存を支持する意見だった。観光相は歴史地区とテーマパークの相乗効果が観光に正の影響をもたらすと判断していたが、歴史的な景観保存にとってはむしろマイナスにしかならないという観点からの批判が強く寄せられたのである。 その後、強い反対によって建設予定地の変更が決定したが、結局移転予定先でも完成することはなく、2006年7月に完全に打ち切られた。
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