保存を巡る論議
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/05 22:05 UTC 版)
「長崎刑務所浦上刑務支所跡」の記事における「保存を巡る論議」の解説
1992年(平成4年)1月、平和公園の地下駐車場建設工事の際に敷地内より赤レンガ造りの拘置所跡基礎部分と側溝、死刑場の地下部分の遺構が発見された。発見に伴い工事は中断され、被爆者・市民団体等が保存を求める運動を起こすなど論議を呼んだ。 発見当初、本島等長崎市長(当時)は市議会にて、駐車場建設予定地と重なる死刑場を含む公園北側の遺構は工事完了後発見時のまま埋設し、公園南側の遺構は「遺構コーナー」として保存、展示する方針を明らかにしていたが、後に「(刑務所の遺構は)被爆の現状を伝えるものとはいえない」、死刑場の公開保存に関しては「人間の感性から一般的に白日にさらすべきではない」として公園北側の遺構を解体し、敷地内へ分割して埋設するとの見解を示した。 一連の論議がきっかけとなり、長崎市は市内の被爆遺構の調査・保存に関する基準を定めた「長崎市被爆建造物等の取扱基準」を策定。1992年9月1日より施行された。
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