伝統の一戦
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早い時期から入れ替え戦制度を採っていた東都大学野球連盟では、東都と同じ旧制大学野球リーグ以来から続く東京六大学野球での早慶戦や、現在の関西学生野球の関関戦・同立戦のような知名度の高い伝統的な組み合わせでの対戦カードは存在し得なかった。しかし、それでも一部の関係者やファンの間では伝統の一戦と呼ばれる対決が存在する。以下に例を記す(伝統的な定期戦交流をしている場合でも当該校同士でのみのものは対象外)。 リーグ創世期の専修大学・中央大学・日本大学の3強時代の流れを汲むもの(東都御三家との異称もある)専修大学対中央大学 中央大学対日本大学 日本大学対専修大学 リーグ創世校同士のライバル校の流れを汲むもの東京農業大学対國學院大學 國學院大學対日本大学 昭和後半期での優勝争いにまつわるもの東洋大学対駒澤大学 東洋大学対亜細亜大学 亜細亜大学対駒澤大学 これら東都の中でも比較的人気の高い対校戦を集め固定した試合をオフシーズンに準公式戦として開催、定期戦化していこうという動きが一部関係者の中で存在していたこともある。
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伝統の一戦
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「1983-1984シーズンのNBA」の記事における「伝統の一戦」の解説
1979年の"3月の狂乱"以来、全米のバスケットファンの期待は、マジック・ジョンソンとラリー・バードの再戦、すなわち、ロサンゼルス・レイカーズとボストン・セルティックスによるファイナルでの対決にあった。しかし過去4回のファイナルでは毎年どちらかのチームが顔を出すものの、両チームがファイナルの舞台に揃って顔を出すことはなかった。しかしこの年、ついに両雄はファイナルの大舞台に並び立つのである。 この4年間、レイカーズもセルティックスも優勝を手にしながらも、あたかも来る決戦に備えるかのように爪を研ぐことを怠らなかった。レイカーズはカリーム・アブドゥル=ジャバーにマジック・ジョンソンのデュオで、1980年に最初の優勝を手にしたが、1982年には新たにパット・ライリーをヘッドコーチとして迎えて2度目の優勝を飾った。この優勝で一皮剥けたライリーはファッション面でも一皮剥け、シックなスーツに身を包み、髪をオールバックで固めた姿をコートに見せるようになった。さらに翌1982年のジェームス・ウォージーの入団は、レイカーズの印象を決定付けた。ゴール下を支配し、速攻の起点となるリバウンドを量産するジャバー。誰も予想がつかないパスから鮮やかな速攻を導き出すマジック。抜群の脚力で速攻の一番手を駆け、敵ゴールにダンクを叩きつけるウォージー。かつてない華やかな試合を展開するレイカーズは人々を魅了し、バスケットコートをコンサート会場へと変えてしまった。"ショータイム"バスケットの完成であった。当時のレイカーズは正にスター集団で、先発シューティングガードにはウォージーの先発昇格に伴い、オールスター選手のジャマール・ウィルクスがコンバートされた。ベンチは元MVPのボブ・マカドゥーに毎年オールディフェンシブチームに名を連ね優秀なシューターでもあるマイケル・クーパーらが控える豪華さだった。さらにジェリー・ウェストGMはマジックと度々衝突していたノーム・ニクソンをゴールデンステート・ウォリアーズに放出。このシーズンのドラフトではバイロン・スコットを獲得、3年目のマイク・マクギーも大きく成長を見せており、若手も着実に揃えるなどチームの清浄化も怠らなかった。 一方セルティックスもラリー・バードを獲得した翌シーズンの1981年に、レッド・アワーバックGMの奇策でロバート・パリッシュとケビン・マクヘイルを同時に獲得。レイカーズに遅れること1年で優勝を手にした。しかし当時のイースタン・カンファレンスにはフィラデルフィア・76ersにミルウォーキー・バックスという強力なライバルがおり、セルティックスはプレーオフを勝ち抜くのに苦労した。フロントコートが充実化する一方でバックコートが手薄なセルティックスは、ダニー・エインジやスコット・ウェドマンを獲得して補強を試みた。しかし前季のプレーオフでバックスの前に敗北。この敗戦はセルティックスに取り分け大きなショックを与え、セルティックスとアワーバックは決断を迫られた。そしてアワーバックはヘッドコーチのビル・フィッチを解任し、八連覇時代のセルティックスでポイントガードを務めたK.C.ジョーンズを新しいヘッドコーチに迎えた。さらにバックスのシドニー・モンクリーフと76ersのアンドリュー・トニー対策のため、元ファイナルMVPで優れたディフェンダーであるデニス・ジョンソンを獲得した。デニス・ジョンソンにジェラルド・ヘンダーソン、控えのエインジと、セルティックスのバックコートもようやく充実した。 しかしセルティックスの売りはやはりフロントコートだった。センターのパリッシュがインサイドの核となり、ベテランパワーフォワードのセドリック・マックスウェルがサポートした。マクヘイルはシックスマンながらチーム3番目の得点とリバウンドを稼ぎ出し、このシーズンのシックスマン賞を受賞している。そしてバードはバックスの敗戦がよほど悔しかったのか、オフに猛練習を積んで、バードの代表的な武器の一つとなるフェイダウェイ・ジャンプショットを身に着けた。バードはこの年24.2得点10.1リバウンド6.6アシストの成績を残し、初のMVPに選ばれている。精神面でも鍛えられた彼はコート上でしばしば非情な面を見せるようになり、他チームの選手を震え上がらせた。ドミニク・ウィルキンスはバードを「殺人鬼の目をしている」と表現したほどである。 ショータイムと称されるほどの華やかさを持ったレイカーズに対し、セルティックスは正反対のチームだった。鮮やかな速攻を主体とするレイカーズに対し、セルティックスはガチガチのハーフコートオフェンスを主体としていた。リーグ屈指のオフェンス力を持つレイカーズに対し、セルティックスはリーグ屈指のディフェンス力を持っていた。陽気な黒人がエースを務めるレイカーズに対し、セルティックスは殺人鬼の目をした寡黙な白人がエースを務めていた。80年代になって一度もファイナルで対戦していないにも関わらず、ライバルチームと見なされ続けてきた両者は、まったく世間が望むような好対照の進化を遂げたのである。 プレーオフに入り、レイカーズは他のウエスタンのチームの成績が落ち込んでいたこともあり、比較的楽にトーナメントを勝ちあがった。カンファレンス決勝ではレギュラーシーズン41勝41敗だったフェニックス・サンズを破り、プレーオフを11勝2敗で3年連続となるファイナルに勝ち進んだ。 一方セルティックスはカンファレンス準決勝でバーナード・キング率いるニューヨーク・ニックスの前に思わぬ苦戦を強いられた。第7戦にもつれた末辛うじてニックスを退けたセルティックスは、カンファレンス決勝でバックスに雪辱を果たし、3年ぶりにファイナルに進出した。 ファイナルはついに待望の伝統の一戦となった。リーグ随一のライバル同士である両チームがファイナルの舞台で対決するのは、1969年以来15年振りとなる。両チームのファイナル初対決は1959年まで遡る。以来両者は11年の間に7回もファイナルで激突し、いつしかライバルと目されるようになった。しかし当時の両者の関係は、セルティックスが一方的に勝利するという歪なもので、レイカーズはジェリー・ウェスト、エルジン・ベイラー、後半にはウィルト・チェンバレンを加えながらも、ビル・ラッセル、ボブ・クージー、ジョン・ハブリチェックらを擁すセルティックスの前に尽く敗れた。しかし今回の対決ではレイカーズが2回、セルティックスが1回すでに優勝を経験したチャンピオンチーム同士の対決であった。待望の一戦はあらゆる言葉で表現された。 東対西 伝統対ニューウェーブ ハリウッド対ビーンタウン ショータイム対シャムロック セルティックス・プライド対L.A.クール ファイナルへの期待の高さの表れであった。「全米の注目」という言葉も決して大げさなものではなく、このファイナルはNBA史上初めて全試合が全米に向けてテレビ生中継された。そして伝統の一戦は、周囲の期待に背かぬ激戦となった。
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伝統の一戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 08:02 UTC 版)
主にメディアなどで、対読売ジャイアンツ戦を「伝統の一戦」と表現されることがある。2016年からは巨人との共同プロジェクトとして同カードを「伝統の一戦 〜THE CLASSIC SERIES〜」と銘打ち相互展開を図っている。
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伝統の一戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 11:59 UTC 版)
主にマスコミなどで、対阪神タイガース戦を「伝統の一戦」と表現されることがある。読売ジャイアンツが“日本初のプロ野球球団”、阪神タイガース(創立当時は「大阪タイガース」)が“第2のプロ野球球団”だったためである。阪神が登場するまで読売は対戦相手がいなかった。
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