争議に関する逸話
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「阿仁前田小作争議」の記事における「争議に関する逸話」の解説
小作側に加わった可児義雄は出獄後小坂町に戻ったが、1935年(昭和10年)1月9日、結核のため死亡した。五味堀の町外れに可児義雄の碑(北緯40度02分54.5秒 東経140度24分03.6秒 / 北緯40.048472度 東経140.401000度 / 40.048472; 140.401000)が同年5月2日に建てられた。碑文は当初「農民の父 可児義雄」であったが特別高等警察から認められず、碑文は「可児義雄君之碑」となった。このとき、全農県連合会開催の可児義雄農民葬が営まれ、約200名の農民らが参加した。当時は碑の建立は警察に禁じられ、戦後片山内閣の時代に、水谷長三郎大臣が出席して碑の除幕式が行われた。分骨された可児義雄の骨は森吉町浦田の源昌寺に埋葬されていたが、道路建設で移転が必要となり、1981年11月29日五味堀共同墓地の手前に可児義雄の墓が建てられた。 一方、大きな犠牲を払いながら、和解条件が結局は地主側に有利なものになったことについては、可児義雄らに対する批判がある。しかし、可児義雄に対しては鉱山側も警察の人も理解を示し、敵も味方もなかったと証言する人もいる。花岡鉱山での闘争で袋叩きにされ着ているものも剥がされた時、警察署長から服をもらって帰ったという。 地主の庄司家は広大な土地を所有しており、秋田県でも有数の地主であった。小作料も他と比較して安く、争議の前は住民から「前田の殿様」と慕われていた。戦前は、鷹巣町へ出るまで他人の土地を踏まずに行けたと言われる。 同事件は全国に報道され有名になる。全国からの支援金や支援物資が組合を通して届き、活動物資(食料)や小作料の延滞金などに使われた。 1928年(昭和3年)11月27日から28日の騒動は凄まじく、互いに流血の騒ぎに発展した。地主側は日本刀や木刀、本物の槍や拳銃などで武装し、農民側は五味堀が坂の上の集落であることを利用して投石や放水、灰の目つぶしで対抗した。 11月26日には巡査部長以下7人の警察官が事務所に出署を求めたが、組合側は反抗的言辞をもって迎えた。検束に及ぼうとしたところ、6人が抜刀し2人は棍棒を構えて立ち向かった。組合側は巡査部長に日本刀で斬りつけ左肘関節に負傷させ退去させ、大挙して逮捕に来ることを予測のうえ太鼓を鳴らして組合員百人ほどを集め、経過報告と闘争の激励演説行った。27日午前2時頃に指導者ら6人は抜刀し、組合人2-30人と共に、地主家の縁故者4人の住家と五味堀巡査派出所を遅い、家族や巡査に刀を突きつけ、怒号して脅迫し、庭木を切り、表札を切り壊し、警戒中の3巡査を脅迫の上に、1人の巡査を40尺の崖下に突き落とした。闘争団事務所周辺では逮捕に来た米内沢警察署長以下39人に、日本刀や竹槍、棍棒を手にして立ち向かい、一斉に投石して暴行を加え、28日まで百数十名の組合員が凶器を携え防備体制のもとに暴徒化した。 地主側の自警団は実質的に暴力団であり、それは新聞報道もされているが、農民側の言い分では警察は地主の味方の様な態度を取り、自警団や警察の暴力行為は闇に葬られたとしている。活動に加わった農民には事件後、過酷な取り調べが行われたという。 自警団は「北電荒井組」の社員で、小又川発電所の建設に勤務していた。旭川では労働者は土工飯場に送り込まれ、棍棒と虐待の血にまみれた手で北海道開発は進められたという。実際、タコ部屋労働で有名な常紋トンネルの北見側は北電荒井組が請け負っている。また、小又川発電所建設では400人の労働者がいたが、朝鮮人100人が賃上げ要求を行ったところ、荒井組は直ちに関係者を一人残らず解雇している。 地主の庄司家の第一別家で元々教師であった庄司兼吉は農民側に立ち、肺癌の病床から農民にアドバイスを与えた。 可児義雄他8名のリーダーが去るに当って、川俣一二三、可児義雄は最後の挨拶を述べた。可児義雄は30分に渡ってこれまでの経緯を述べ「我この地をさるとも、諸君は断じて組合を死守せよ」と叫び、300人の組合員は席を切ったように一斉に泣き出した。聞いていた警官の誰もが目を濡らしていた。「この日、可児義雄の考えで和解が成立しなかったらそれこそ大変な事になっていただろう。懐にダイナマイトを入れていざという時には火をつけて警察と一緒にふっとんでしまおうと、実際に懐にダイナマイトを入れていた人が何人もいた。…他の人が説得しても、農民たちを抑えることは出来なかっただろう。おそらく、可児さんが居なければ、死人が何人も出たことだろうが、それほど私たち農民は、思いつめていたのである。」と証言もある。 歌手東海林太郎は、秋田市楢山の庄司家の別家の娘である庄司久子(本名 ヒサ)と学生結婚している(2人とも「しょうじ」なのは偶然である)。卒業後、東海林太郎は満鉄に就職し、2人とも満州に移住する。しかし、久子自身が紹介した渡辺シズと東海林太郎が一緒に仲良く歌のレッスンをしている様子を見たためか、久子は大正14年9月に長男和樹を夫の元に残し、一人大連から帰国する。その後、大正15年1月次男玉樹を出産するものの、阿仁前田小作争議が実家の庄司家で発生すると、早稲田大学出身で思想のせいで左遷された東海林太郎への庄司家からの反発が大きくなったためもあり、結局昭和6年に2人は離婚することになる。東海林太郎はその後、渡辺シズと再婚している。 同事件は1930年(昭和5年)に昭和天皇の耳に入っており、全国検事長会議の際に宮城県検事長が天皇から質問を受けたことから、早急な合意が期待された。判決は軽きに失したという意見が当時の法曹界で話題になったほどであるから、可児義雄の控訴取りやめは、陛下の宸襟を悩ませたことに恐縮してではないかと言われた。
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