争議に関する逸話とは? わかりやすく解説

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争議に関する逸話

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 14:27 UTC 版)

阿仁前田小作争議」の記事における「争議に関する逸話」の解説

小作側に加わった可児義雄は出獄後小坂町戻ったが、1935年昭和10年1月9日結核のため死亡した五味堀町外れ可児義雄の碑(北緯4002分54.5秒 東経140度24分03.6秒 / 北緯40.048472度 東経140.401000度 / 40.048472; 140.401000)が同年5月2日建てられた。碑文当初農民の父 可児義雄」であった特別高等警察から認められず、碑文は「可児義雄君之碑」となった。このとき、全農県連合会開催可児義雄農民葬が営まれ、約200名の農民らが参加した当時碑の建立警察禁じられ戦後片山内閣時代に、水谷長三郎大臣出席して碑の除幕式が行われた。分骨された可児義雄の骨は森吉町浦田源昌寺埋葬されていたが、道路建設移転が必要となり、1981年11月29日五味堀共同墓地の手前に可児義雄の墓が建てられた。 一方大きな犠牲払いながら、和解条件結局は地主側に有利なものになったことについては、可児義雄らに対す批判がある。しかし、可児義雄に対して鉱山側も警察の人も理解示し、敵も味方もなかったと証言する人もいる。花岡鉱山での闘争袋叩きにされ着ているものも剥がされた時、警察署長から服をもらって帰ったという。 地主庄司家広大な土地所有しており、秋田県でも有数地主であった小作料も他と比較して安く争議の前は住民から「前田殿様」と慕われていた。戦前は、鷹巣町へ出るまで他人土地踏まず行けたと言われる同事件は全国報道され有名になる全国からの支援金支援物資組合通して届き活動物資食料)や小作料延滞金などに使われた。 1928年昭和3年11月27日から28日騒動は凄まじく、互いに流血騒ぎ発展した地主側は日本刀木刀本物拳銃などで武装し農民側は五味堀坂の上集落であることを利用して投石放水、灰の目つぶし対抗した11月26日には巡査部長以下7人の警察官事務所に出署を求めたが、組合側は反抗的言辞をもって迎えた検束及ぼうとしたところ、6人が抜刀2人棍棒構えて立ち向かった組合側は巡査部長日本刀斬りつけ肘関節負傷させ退去させ、大挙して逮捕に来ることを予測のうえ太鼓鳴らして組合員百人ほどを集め経過報告闘争激励演説行った27日午前2時頃に指導者ら6人は抜刀し、組合2-30と共に地主家の縁故者4人の住家五味堀巡査派出所を遅い、家族巡査に刀を突きつけ怒号して脅迫し庭木を切り、表札を切り壊し警戒中の3巡査脅迫の上に、1人巡査40尺の崖下突き落とした闘争事務所周辺では逮捕に来た米内沢警察署長以下39人に、日本刀竹槍棍棒を手にして立ち向かい一斉に投石して暴行加え28日まで百数十名の組合員凶器携え防備体制のもとに暴徒化した。 地主側の自警団実質的に暴力団であり、それは新聞報道もされているが、農民側の言い分では警察地主味方の様な態度取り自警団警察の暴力行為は闇に葬られたとしている。活動加わった農民には事件後、過酷な取り調べが行われたという。 自警団は「北電荒井組」の社員で、小又川発電所建設勤務していた。旭川では労働者土工飯場送り込まれ棍棒虐待の血にまみれた手で北海道開発進められたという。実際タコ部屋労働有名な常紋トンネル北見側は北電荒井組が請け負っている。また、小又川発電所建設では400人の労働者がいたが、朝鮮人100人が賃上げ要求行ったところ、荒井組は直ち関係者一人残らず解雇している。 地主庄司家第一別家で元々教師であった庄司兼吉は農民側に立ち、肺癌病床から農民アドバイス与えた可児義雄他8名のリーダーが去るに当って川俣一二三可児義雄は最後の挨拶述べた可児義雄は30分に渡ってこれまでの経緯述べ「我この地をさるとも、諸君断じて組合死守せよ」と叫び300人の組合員は席を切ったように一斉に泣き出した聞いていた警官誰もが目を濡らしていた。「この日、可児義雄の考え和解成立しなかったらそれこそ大変なになっていただろう。懐にダイナマイト入れていざという時には火をつけて警察一緒にふっとんでしまおうと、実際に懐にダイナマイト入れていた人が何人もいた。…他の人が説得しても、農民たちを抑えることは出来なかっただろう。おそらく、可児さんが居なければ死人何人も出たことだろうが、それほど私たち農民は、思いつめていたのである。」と証言もある。 歌手東海林太郎は、秋田市楢山庄司家別家の娘である庄司久子本名 ヒサ)と学生結婚している(2人ともしょうじ」なのは偶然である)。卒業後、東海林太郎満鉄就職し2人とも満州移住する。しかし、久子自身紹介した渡辺シズ東海林太郎一緒に仲良く歌のレッスンをしている様子見たためか、久子大正14年9月長男和樹を夫の元に残し一人大連から帰国するその後大正15年1月次男玉樹出産するものの、阿仁前田小作争議実家庄司家発生すると、早稲田大学出身思想のせいで左遷され東海林太郎への庄司家からの反発大きくなったためもあり、結局昭和6年2人離婚することになる。東海林太郎その後渡辺シズ再婚している。 同事件は1930年昭和5年)に昭和天皇耳に入っており、全国検事長会議の際に宮城県検事長天皇から質問受けたことから、早急な合意期待された。判決軽き失したという意見当時法曹界話題になったほどであるから可児義雄の控訴取りやめは、陛下宸襟悩ませたことに恐縮してではないかと言われた。

※この「争議に関する逸話」の解説は、「阿仁前田小作争議」の解説の一部です。
「争議に関する逸話」を含む「阿仁前田小作争議」の記事については、「阿仁前田小作争議」の概要を参照ください。

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