世良公則&ツイスト期
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「世良公則&ツイスト」の記事における「世良公則&ツイスト期」の解説
世良のド派手なアクション、そしてあまりにワイルドなボーカルスタイルは多くの人の度肝を抜いた。デビューシングル「あんたのバラード」(オリコン最高6位)、「宿無し」(最高3位)、「銃爪 (ひきがね)」(最高1位)、「性」(最高5位)、「燃えろいい女」(最高3位)と、立て続けに大ヒットを飛ばし一世を風靡した。ロックバンド・ミュージシャンが、シングルヒットを続けるのはそれまで前例が無かった。また1978年7月10日に発売したデビューアルバム『世良公則&ツイスト』はオリコンで1位を記録、日本のロックバンドとしては、デビューアルバムが、チャートの1位を記録したのはこのアルバムが初めてであった。 世良公則&ツイスト、Char、原田真二の三組は「ロック御三家」と呼ばれ、それまでの日本のロックミュージシャンと違い、初めて『ザ・ベストテン』などのテレビのランキング番組や歌謡番組、「月刊明星」「月刊平凡」等のアイドル雑誌、「セブンティーン」「プチセブン」などのティーン雑誌やテレビに頻繁に登場・出演した。これがロックとは無縁だったファンを獲得することとなり、それまでのロックバンドにはなかった女性ファンを開拓して、新たな潮流を生み出すきっかけを創り出した。日本語でロックを演奏できるアーティストがブラウン管に出てきたことは、日本の音楽シーンにとって大きな衝撃だった。世良を見て初めてロックに触れた人も多く、男の子は世良のアクションをマネた。 世良公則&ツイストの活躍が特に目立ったのが1978年1月から始まった『ザ・ベストテン』だった。社会的にも影響力の大きかった当番組に於いて、全盛期の沢田研二、山口百恵、西城秀樹、ピンクレディーら、歌謡曲の大スターを抑えて、初年度のシングル・年間第1位(「銃爪 (ひきがね)」)、年間第3位(「宿無し」)を獲得。特に3枚目のシングル「銃爪」は1978年の9月から11月まで同番組で10週連続1位と、3ヶ月の間1位に居座り、レコード売上げも94万枚に達した。『ザ・ベストテン』10週連続の1位は、「ルビーの指環」(寺尾聰、1981年)12週連続に次ぐ歴代でも2位となる。同じヤマハ所属の中島みゆきは、頑なに当番組に出演しなかったが、世良公則&ツイストは積極的に出演した。画面からはみ出す程のイキのいいパワーが視聴者を魅了した。『ザ・ベストテン』は、ニューミュージック系歌手の曲を紹介するというコンセプトで始まった番組であったため、番組立ち上げ期に彼らの出演がなければ『ザ・ベストテン』が伝説になることはなかった。番組プロデューサー・山田修爾は、「間違いなくツイストは『ザ・ベストテン』初期の功労者のひとりである」と述べている。 「ロック御三家」のうち最初にテレビに出始めたのはCharであったが、女子中・高生を中心に爆発的人気を得たのは、1977年10月にデビューした原田真二と翌11月にデビューした世良公則&ツイストであった。特に1978年後半には、世良公則&ツイストは人気やレコードセールスの点では完全に他の二人に水をあけ、歌謡曲を含めてもトップスターになった。当時の音楽誌は「いまようやく、日本のロックは世良公則&ツイストの手で、メジャーになろうとしている」と書いた。 歌謡曲とニューミュージックの全盛期に於いて「ロックも売れる」ことを初めて証明したバンドであった。ロックの楽曲が最初に売れたのはダウン・タウン・ブギウギ・バンドのシングル「スモーキン・ブギ」(発売は1974年12月)、「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」(1975年6月)であるが、ダウン・タウン・ブギウギ・バンド自体が"ロック"として見られておらず(宇崎竜童談)、また当時は歌謡曲、演歌、フォークが強く、他にロック系の後続がなくロックはメジャーにならなかった。 "ロックのメジャー化"は、最も商業的に成功した世良公則&ツイストを筆頭とした「ロック御三家」と、マスメディアを拒否しながら、1978年に出したシングル「時間よ止まれ」と2枚のアルバム『ゴールドラッシュ』、『LIVE後楽園スタジアム』を全てヒットチャート1位にし、自伝本『成りあがり』のベストセラー、長者番付でロック系ミュージシャンとして初めて1位となった矢沢永吉や、「ロック御三家」より、ほぼ一年遅れで世に出たサザンオールスターズ、この年の年末から翌1979年にかけて大ヒットを出したゴダイゴ、甲斐バンドら、この時代誰も予想だにしなかったロック系のヒットラッシュからで、これらの大ヒットは音楽マーケットに大きな革命を起こした。J-POPシーンの盛況は、商売にならなかったはずのロックが商売になり始めた77~78年に始まったとも評される。ただし前記のように"日本のロック"は「世良公則&ツイストがメジャー化した」とする文献や、「ロック御三家」が「日本のロックをメジャーに押し上げた」とする文献もある。『Jロック&ポップスCD名盤ガイド』は「歌謡曲と演歌、ニューミュージックで占められていたチャート上位にロック勢が顔を出すことなど、とても考えられないというのが普通の時代。そんな状況に風穴を開けた代表的存在が世良公則&ツイスト」「世良のコブシの効いた歌唱法も含めて"歌謡ロック"の印象が強い。だがそれはまったくマイナス要因とはいえない。むしろロックと歌謡曲の境目がほとんどなくなっている現在(2001年)の状況を考えれば、彼らの音楽性はまさにJ-ROCKの元祖そのものといえる」と評している。 またバンドの形態という意味でも大きな功績を残している。基本的に楽器を持たず、ボーカルに徹する強力なボーカリストをフロントに立てるバンドスタイルは、ツイスト以降、甲斐バンド、ゴダイゴ、RCサクセションらが商業的に成功したことで、日本のロックバンドの一形態を作った。これは現在も売れるバンドの常套手段となっている。ツイストらが興したロックのメジャー化は、後のロック・バンドへも多大な影響を与えることになった。 なぜこの時期、日本のロックが売れたかと言えば、「ロック御三家」が出る前、1976年から1977年にかけてベイ・シティ・ローラーズやキッス、スージー・クアトロやランナウェイズら、英米のロックバンド・ミュージシャンが日本で売れて、日本のマスメディアにも大量露出した。スージー・クアトロは「サケロック大関」と日本酒のテレビCMもやった。こうした影響もあったかもしれない。
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