世界王者の誕生
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「日本のボクシング史」の記事における「世界王者の誕生」の解説
戦後のボクシングは東京・新橋駅付近の焼け跡で中村正美が会長を務める国民拳闘倶楽部が開いた青空道場から始まり、進駐米軍の慰問や在日朝鮮人連盟が主催する興行を中心に活気づいていった。戦後初の試合は1945年12月に西宮で行われ、続いて東京でも試合が行われた。『ボクシング・ガゼット』編集長の郡司信夫の提案に乗った「銀座グリル」経営者の長井金太郎が社長となり、1946年6月にはプロモーション会社の日本拳闘株式会社(日拳)が創設され、翌月には東京・銀座木挽町にあった築地東宝劇場を改装し、練習場・試合場を兼ねた日拳ホールが開設された。また同年7月8日には日本拳闘協会が発足。1947年8月には全日本選手権も再開され、6人が王者となっている。 コミッションがなかった時代、試合は主に草試合と呼ばれるドサ回りの興行で行われた。十数人で一座を組んで自ら運んだキャンバスで仮設リングを作ると、もぎりやレフェリー、タイムキーパーなどを選手たちが交代で務め、昼夜2興行を4日続けるようなことをしていた。空腹のあまり真剣に打ち合えなければパンチが当たらなくても意図的に倒れることがあった。しかし中には故意にではなく、試合中に疲労と空腹のあまり気を失って倒れるボクサーもいた。 1950年代 進駐軍の生物化学者アルビン・R・カーンのマネジメントや援助を受けて米国式トレーニングを積んだ白井義男は、花田陽一郎、堀口宏を下して日本王座の2階級制覇を成し遂げる。白井がダド・マリノとの2度の対戦を経て世界フライ級1位にランクされ指名挑戦者として世界タイトルマッチ出場可能になると、世界戦実現に不可欠なコミッショナー制度の確立が急務となった。当時は本田明が理事長を務めていた全日本ボクシング協会が協議を重ねた結果、初代コミッショナーには後楽園スタヂアム(後の東京ドーム)社長の田邊宗英、コミッショナー諮問委員には真鍋八千代、喜多壮一郎の2名が選出された。1952年4月21日に東京會舘でJBC(日本ボクシングコミッション)の設立を発表。事務局長には新聞社で編集局長を務めていた菊池弘泰が就任し、試合経過などを掲載した『ボクシング広報』を発行した他、インスペクターには戦前は中村屋群造の名でボクサーとして活躍した丸屋群造が起用された。JBCの設立と同時に、それまでコミッションと協会を兼務してきた全日本ボクシング協会はいったん解散した。白井は1952年5月19日、後楽園球場で45,000人の観衆を前にマリノを下して日本初の世界王者となった。 1954年1月7日、JBCは当時の世界王座統括団体NBA(全米ボクシング協会、後の世界ボクシング協会)に正式加盟。事務局は東京都港区の他、名古屋、大阪、福岡に設置された。またJBCは1954年4月に米国のボクシング専門誌『リング』の編集長ナット・フライシャーを招待。フライシャーの目に留まった金子繁治は同誌が発表する世界ランキングの10位に入った。同年10月27日には田辺の呼びかけで日本、フィリピン、タイの3か国によりOBF(東洋ボクシング連盟、後のOPBF=東洋太平洋ボクシング連盟)が発足した。 昭和30年代初め、東京での試合は戦前から焼け残った浅草公会堂、下谷公会堂、王子デパート特設リングなどで行われていた。粗末なリングは軋んで揺れ、場内には煙草の煙が立ち込めていた。日本は国際ボクシングビジネスの実績がなく、日本銀行には他国の世界王者に支払える十分な外貨の蓄積がなかった。白井以後、金子繁治、三迫仁志は世界ランカーとなったが世界王座挑戦の機会を得られず、秋山政司は日本ライト級王座を19度防衛しながら、その業績に見合うような報酬を得られなかった。最も存在感を示した矢尾板貞雄が1959年11月5日にパスカル・ペレスに挑戦した世界タイトルマッチは、非公式でテレビ視聴率92.3パーセントを記録したが、王座奪取はならなかった。この頃は、矢尾板に次いで三迫を下した木村七郎やメルボルンオリンピック代表からプロへ転向した米倉健司らも活躍した。 1960年代 1960年ローマオリンピックのフライ級で田辺清が銅メダルを獲得し、日本ボクシング初のオリンピックメダリストとなった。しかし、決勝進出を妨げたのは不運な判定であった。 1960年の新人王戦のフライ級には、原田政彦(のちのファイティング原田)、海老原博幸、青木勝利の3人が登場し、「フライ級三羽烏」として知られるようになる。原田と海老原で争われたこの年の東日本新人王決定戦フライ級決勝についてスポーツライターで作家の佐瀬稔は、両者はこの時点で天才的なテクニシャンであり、彼らの見せた攻防の技術、的確なパンチ、優れた戦術、敗北を恐れない勇気は、日本で行われた全公式試合を通じても滅多に見られないものとして、1993年に新人王戦におけるベストバウトと回顧している。3人は後に努力型のラッシャー原田、スマートなカミソリパンチャー海老原、天才肌のメガトンパンチャー青木とそれぞれの個性を発揮していった。
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