世界王者の誕生とは? わかりやすく解説

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世界王者の誕生

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/05 23:23 UTC 版)

日本のボクシング史」の記事における「世界王者の誕生」の解説

戦後ボクシング東京新橋駅付近焼け跡中村正美が会長務め国民拳闘倶楽部開いた青空道場から始まり進駐米軍慰問在日朝鮮人連盟主催する興行中心に活気づいていった戦後初の試合1945年12月西宮行われ続いて東京でも試合が行われた。『ボクシング・ガゼット編集長郡司信夫提案乗った銀座グリル経営者長井金太郎社長となり、1946年6月にはプロモーション会社日本拳闘株式会社(日拳)が創設され翌月には東京銀座木挽町にあった築地東宝劇場改装し練習場試合場兼ねた日拳ホール開設された。また同年7月8日には日本拳闘協会発足1947年8月には全日本選手権再開され、6人が王者となっている。 コミッションがなかった時代試合は主に試合呼ばれるドサ回り興行行われた十数人で一座組んで自ら運んだキャンバス仮設リング作ると、もぎりやレフェリータイムキーパーなどを選手たち交代務め昼夜2興行4日続けるようなことをしていた。空腹のあまり真剣に打ち合えなければパンチが当たらなくても意図的に倒れることがあった。しかし中には故意ではなく試合中疲労空腹のあまり気を失って倒れボクサーもいた。 1950年代 進駐軍生物化学者アルビン・R・カーンマネジメント援助受けて米国トレーニング積んだ白井義男は、花田陽一郎堀口宏下して日本王座2階制覇成し遂げる白井ダド・マリノとの2度対戦経て世界フライ級1位にランクされ指名挑戦者として世界タイトルマッチ出場可能になると、世界戦実現不可欠なコミッショナー制度確立急務となった当時本田明理事長務めていた全日本ボクシング協会協議重ねた結果初代コミッショナーには後楽園スタヂアム(後の東京ドーム社長田邊宗英コミッショナー諮問委員には真鍋八千代喜多壮一郎の2名が選出された。1952年4月21日東京會舘JBC日本ボクシングコミッション)の設立発表事務局長には新聞社編集局長務めていた菊池弘泰就任し試合経過などを掲載したボクシング広報』を発行した他、インスペクターには戦前中村屋群造の名でボクサーとして活躍した丸屋群造が起用された。JBC設立同時にそれまでコミッション協会兼務してきた全日本ボクシング協会はいったん解散した白井1952年5月19日後楽園球場45,000人の観衆前にマリノ下して日本初世界王者となった1954年1月7日JBC当時世界王座統括団体NBA全米ボクシング協会後の世ボクシング協会)に正式加盟事務局東京都港区の他、名古屋大阪福岡設置された。またJBC1954年4月米国ボクシング専門誌リング』の編集長ナット・フライシャーを招待フライシャーの目に留まった金子繁治は同誌が発表する世界ランキング10位に入った同年10月27日には田辺呼びかけ日本フィリピンタイの3か国によりOBF(東洋ボクシング連盟、後のOPBF=東洋太平洋ボクシング連盟)が発足した昭和30年代初め東京での試合戦前から焼け残った浅草公会堂下谷公会堂王子デパート特設リングなどで行われていた。粗末なリング軋んで揺れ場内には煙草の煙立ち込めていた。日本国際ボクシングビジネスの実績がなく、日本銀行には他国世界王者支払え十分な外貨蓄積がなかった。白井以後金子繁治三迫仁志世界ランカーとなった世界王座挑戦機会得られず、秋山政司日本ライト級王座19防衛しながら、その業績見合うような報酬得られなかった。最も存在感示した矢尾板貞雄1959年11月5日パスカル・ペレス挑戦した世界タイトルマッチは、非公式テレビ視聴率92.3パーセント記録したが、王座奪取はならなかった。この頃は、矢尾板に次いで三迫下した木村七郎メルボルンオリンピック代表からプロへ転向した米倉健司らも活躍した1960年代 1960年ローマオリンピックフライ級田辺清銅メダル獲得し日本ボクシング初のオリンピックメダリストとなった。しかし、決勝進出妨げたのは不運な判定であった1960年新人王戦フライ級には、原田政彦(のちのファイティング原田)、海老原博幸青木勝利の3人が登場し、「フライ級三羽烏」として知られるうになる原田海老原争われこの年東日本新人王決定戦フライ級決勝についてスポーツライター作家佐瀬稔は、両者はこの時点天才的なテクニシャンであり、彼らの見せた攻防技術的確なパンチ優れた戦術敗北恐れない勇気は、日本行われた全公式試合通じても滅多に見られないものとして、1993年新人王戦におけるベストバウト回顧している。3人は後に努力型のラッシャー原田スマートなカミソリパンチャー海老原天才肌のメガトンパンチャー青木それぞれの個性発揮していった。

※この「世界王者の誕生」の解説は、「日本のボクシング史」の解説の一部です。
「世界王者の誕生」を含む「日本のボクシング史」の記事については、「日本のボクシング史」の概要を参照ください。

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