世界初の蒸気機関車・ペナダレン号
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「リチャード・トレビシック」の記事における「世界初の蒸気機関車・ペナダレン号」の解説
ウェールズ南部の町マーサー・ティドヴィルでは製鉄業が栄え、鉄鉱石や石炭の運搬に鉄道馬車を使用していた。また、製鉄所で製造された鉄製品を運河を使ってカーディフ(Cardiff)まで運搬していた。しかし、運河だけでは製品の輸送が追いつかなかったため、1802年にいくつかの製鉄所が共同して、マーサー・ティドヴィルから途中のアベルカノン(Abercynon)まで運河に沿って結ぶ馬車鉄道を作った。 1802年、トレビシックはマーサー・ティドヴィルのペナダレン製鉄所(英語版)でハンマー(英語版)を駆動する高圧蒸気機関を製作した。同製鉄所の所有者サミュエル・ホンフレイの監督下、同製鉄所の作業員リース・ジョーンズを助手として、その蒸気機関を台車に設置して蒸気機関車とした。1803年、トレビシックはこの蒸気機関車の特許をサミュエル・ホンフレイに売却した。 ホンフレイは、トレビシックの蒸気機関車が10トンの鉄を牽引してペナダレン(.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯51度45分03秒 西経3度22分33秒 / 北緯51.750825度 西経3.375761度 / 51.750825; -3.375761)からアベルカノン(北緯51度38分44秒 西経3度19分27秒 / 北緯51.645567度 西経3.324233度 / 51.645567; -3.324233)までの約16kmを運べるか、別の製鉄所の持ち主リチャード・クローシェイ(英語版)と500ギニーの賭けをした。この賭けは大衆の注目を集め、1804年2月21日、ペナダレン号は10トンの鉄と5両の客車、それに乗った70人の乗客をアベルカノンまで4時間5分で輸送することに成功した。平均時速は約3.9kmである。出発後、間もなくペナダレン号の煙突が低い橋にぶつかって破損し、その場で修理した、という記述も見られる。乗客にはホンフレイとクローシェイだけでなく、トレビシックの尊敬するデービス・ギディや政府が派遣した技術者らがいた。 ペナダレン号の蒸気機関はコールブルックデールのそれとは構成が異なる。ボイラーとシリンダーの配置を逆にしたので、火室扉と可動部品は離れている。それにより、クランクシャフトが煙突側に配置されるようになった。煙管を1つ備えたボイラーが四輪の台車上に設置されている。一方の端にストロークの非常に長いシリンダーが1つあり、スライドバーに沿ってピストンヘッドのクロスヘッド(英語版)があり、全体としてはさながら巨大なトロンボーンのようである。シリンダーが1つしかないので、大きなはずみ車と組み合わされている。はずみ車の回転慣性によって一定の回転力を中央の歯車に伝え、そこから各動輪の歯車に力を伝達する。復水器を用いない高圧シリンダーを使っており、火室からの煙と共に蒸気を煙突から排出する。 ホンフレイは賭けに勝った。成功の要因は線路の勾配が緩やかだったためである。当時、滑らかなレールに鉄の動輪を用いて自力で走行しようとしても動輪が滑ってしまうため、実用にならないという認識があったようである。トレビシックの蒸気機関車はこの常識を覆した、と指摘する記述も見られる。レールと車輪のみで走行する方法を粘着走行と言う。粘着による走行はトレビシックの成功以降も疑問視されていた。そのため、その後もしばらくはレールは車両の案内に使われ、別に設けられた歯車を走行に用いる蒸気機関車が見られる。ジョン・ブレンキンソップ(John Blenkinsop)が考案し、マシュー・マレー(Matthew Murray)が製造したサラマンカ(Salamanca)号がその一例である。トレビシックの機関車から9年後の1813年にイギリスのウィリアム・ヘドリー(William Hedley)が再び粘着走行による蒸気機関車ワイラム・ディリー(Wylam Dilly)号、パフィング・ビリー(Puffing Billy)号を製作し、ようやくその知見が再認識された(両者とも現存し、現存する最古の蒸気機関車でもある)。その後粘着走行を一般化させたのはスチーブンソンであるとする説が有力である。 蒸気機関車の走行には成功したものの、前途は多難だった。初の走行の際にもいくつかのトラブルに見舞われたが、一番の問題はレールだった。線路は、軌間約1270mm、鋳鉄製のL型レールを使用していた(4フィート4インチ(約1321mm)という記述も見られる)。当時のレールは馬車鉄道用に作られており、もろい鋳鉄製レールを用いていた。そのため、機関車の重量に耐えられず、ほどなくして破損した。また、蒸気機関車にも、回転にムラがある、動力伝達用の歯車が破損する、大きな音を出す、などの問題を抱えていた。このため、蒸気機関車による運搬は3度ほどで中止され、馬車の牽引に戻された。ペナダレン号も解体され、蒸気機関は元のハンマー駆動用に戻された。 このように、レールと蒸気機関車を用いた本格的な鉄道の実用化までには至らなかった。まだ、レールも蒸気機関車も開発途上にあり、いましばらくの改良が必要だった。 マーサー・ティドヴィルにはペナダレン号の記念碑があり、その背後に石壁がある。これは、ホンフレイの屋敷の塀の一部である。 ペナダレン号の原寸大の実動する複製が製作され、1981年にカーディフのウェールズ産業海運博物館に贈られた。同博物館が閉館すると、スウォンジの国立ウォーターフロント博物館に移された。年に数回、屋外に設置された40mの線路を走行する実演が行われている。
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