世界初の観測飛行(1943年のサプライズ・ハリケーン)
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「ハリケーン・ハンター」の記事における「世界初の観測飛行(1943年のサプライズ・ハリケーン)」の解説
ハリケーンに対する世界初の観測目的の飛行は、第二次世界大戦最中にテキサス州ヒューストンを襲った「サプライズ・ハリケーン」の際に敢行された。これは、操縦士の間の賭けがきっかけとなったといわれている。 1943年夏当時、テキサス州ヒューストンにあるブライアン飛行場では、イギリス人飛行訓練生が計器飛行の訓練を受けていた。そこにサプライズ・ハリケーンが接近した際、同僚のアメリカ人飛行士たちはT-6練習機を退避させようとした。その様子を見たイギリス人訓練生たちが、T-6練習機の構造的な欠陥をあげつらったところ、主任教官であるジョー・ダックワース大佐は、T-6を自ら操縦してハリケーンの目に突入し、安全に帰還してみせた。この最初の飛行の際にナビゲーター席にはラルフ・オヘア中尉が搭乗していたが、直後に敢行された2度目のハリケーンの目に向けた飛行の際には基地の気象担当官であるウィリアム・ジョーンズ・バーディック中尉が同乗した。 この飛行によって、ハリケーンの内部を飛行機から観測できることが証明され、以後、不定期に観測飛行が行われるようになった。その後、1946年に初めて「ハリケーン・ハンター」の名が使用され、この名称が今日まで受け継がれている。 1974年、グアム島アンダーセン空軍基地の第54気象偵察隊「タイフーン・チェイサー」に、観測機への改造を受けたばかりのWC-130(機体番号 65-0965)が配属された。 この機体は、1974年10月にフィリピンに大きな被害をもたらした「ベス」台風(日本では多摩川水害を引き起こした台風23号として知られる)の観測に派遣され、フィリピンのクラーク空軍基地から、「スワン38」というコールサインの下で観測に出発したが、1974年10月12日に、台風の目への2回目の突入前に交信を絶った。交信記録からは機上で異常事態が発生したことは窺えなかった。機体あるいは乗員の痕跡を発見することなく捜索活動は終了し、乗員6名は全員、任務上の死亡(KIA / Killed In Action)とされた。 スワン38号は、数少ないハリケーン・ハンター任務中の遭難であり、WC-130としては唯一の例である。 1989年、1機のWP-3Dがハリケーン・ヒューゴ観測中に乱気流(メソ渦)に巻き込まれ、設計限界を超えるGがかかり3番エンジンから出火した。燃料の供給停止により消火し機体にもダメージが無いと判断したため3発で観測を続行、共に観測を行っていたWC-130Jの誘導により基地に帰還した。事故調査により燃料の供給システムに問題があることが判明し、原型機であるP-3にも改善案が示された。また、初回の突入時には高度5000フィート以上からハリケーンに進入するよう観測法が改められた。この事故はメーデー!:航空機事故の真実と真相 第11シーズン第6話 "Into The Eye of The Storm"で取り上げられた。詳しくは「1989年アメリカ海洋大気庁P-3エンジン喪失事故」を参照。
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