世界初の女性フリーメイソン会員
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「マリア・ドレーム」の記事における「世界初の女性フリーメイソン会員」の解説
1881年、反教権主義会議で、同会議の会長で奴隷制廃止運動家ヴィクトル・シュルシェールの代理として講演を行った。これは政教分離法案の提出を決定することになった重要な会議であり、約4千人の議員が出席した。これまでにもフランス大東社を含む多くの組織の会合で講演を行っていたが、この会議で「社会における女性の役割」について講演したことが彼女の名声を決定的なものにした。翌1882年1月12日、「ル・ペック自由思想家」ロッジがドレームをフリーメイソン会員として受け入れることに決定した。プロテスタント牧師ジェームズ・アンダーソン(英語版)によって1723年に編纂されたフリーメイソン憲章では、「農奴、女性、不道徳で不謹慎な男性」の入会が禁止されていたが、「ル・ペック自由思想家」のロッジ主宰者アルフォンス・ウーブロンは、「教権主義と闘うためには、まず、ロッジに女性的要素が入り込むことで「自律」という言葉の正しさを認めさせる必要がある。というのは、フリーメイソンの道徳と理性により女性のなかにある偏見と闘い、これを破壊することが、すなわち、武力によらずに真の社会の解放を準備することになるからである」と考えていた。ヴィクトル・ユーゴー、ルイ・ブラン立ち合いのもと、ドレームの入会儀式が行われたが、フリーメイソン内で一大スキャンダルを巻き起こし、ウーブロンは解任され、ロッジは閉鎖された。
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