世界初の偉業
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「He 178 (航空機)」の記事における「世界初の偉業」の解説
He 112 を改造した世界初のロケット推進機 He 176 に遅れること2ヶ月、数回のバウンド飛行に続き、1939年8月27日に同社テストパイロットのエーリッヒ・ワルシッツ (Erich Warsitz) の手で He 178 は初飛行した。これはホイットルらによる グロスター E.28/39 の初飛行より1年半も早かったが、HeS 3b は低出力かつ耐久性にも欠け、速度は計画値を下回る 325 kt (600 km/h) に留まり、滞空時間も10分に制限されるなど、レシプロ機に対して明確な優位性を示せず、試作2号機 (He 178 V2) に至っては推力不足で離陸もできずに終わった。 同年11月1日、エルンスト・ウーデット (Ernst Udet)、エアハルト・ミルヒ (Erhard Milch) ら独空軍省 (Reichsluftfahrtministerium, RLM) 及びナチ高官の前で He 176, He 178 の展示飛行が催され、その場で戦闘機 He 280 の開発契約が結ばれたものの積極的な援助は得られなかった。 だが、ホイットルら競合者の動きを察知し、高速ジェット機の将来性に確信を抱いていた技官ヘルムート・シェルプ (Helmut Schelp) やハンス・アドルフ・マウフ (Hans Adolph Mauch) らは、ハインケルに He 280 計画を促す一方、航空機エンジン製造各社にもターボジェットエンジンの開発を非公式に打診した。この発注仕様 109 が、後に軸流式の BMW 003 (109/003) 、Jumo 004 (109/004) として具現化する。 試験を終えた He 178 は He 176 と共にドイツ空軍博物館 (Luftwaffenmuseum) に展示されていたが、1943年のベルリン大空襲で焼失した。試作機のみだったにもかかわらず大々的に対外宣伝された He 100 とは異なり、He 178 の存在はプロパガンダされなかったため、機密情報に接することのできた各国軍の上層部や一部の技術者を除き、他国に戦後まで知られることはなかった。現在はレプリカが初飛行の地ロストック・ラーゲ空港 (Flughafen Rostock-Laage) と、スミソニアン航空宇宙博物館に置かれている。
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世界初の偉業
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「ハインケル HeS 3」の記事における「世界初の偉業」の解説
オハインの開発体制はホイットルより恵まれており、中間的な HeS 2 を経て、直ちに本格型の HeS 3 で初飛行を目指すことになった。HeS 3の最初デザインは概ねHeS 1と類似していた。8枚のブレードからなる単段のインデューサーは、軸流圧縮機ではなく、吸入される空気に遠心式圧縮機の回転に合わせた回転方向への運動エネルギーを与え、流入損失を減らすものである。その遠心式圧縮機は16枚のブレードのついた円盤である。遠心式圧縮機で圧縮された空気は、圧縮機とタービンを繋げるシャフトを延長してHeS 1よりも広がった空間に設置されたアニュラ型の燃焼室に導かれた。この最初のデザインのエンジンの試験は1938年3月近辺に行われたが、その燃焼室の配置はエンジン直径のコンパクト化には貢献したものの不完全燃焼を引き起こしてしまった。 HeS 3は、再設計されHeS 3bとなった。HeS 3bは、燃焼室の配置を再検討し、アニュラ型の燃焼室を遠心圧縮機の前方に配置した。これにより、遠心式圧縮機で圧縮された空気は圧縮機外周ディフューザーを通過した後に分離され、大半は圧縮機外周前方の湾曲したダクトへ入り、180度反転してアニュラ型燃焼室に前方から流入してライナ内で燃料と混合・点火される。ディフューザー外周で分離された空気の片方は燃焼室ライナの内側から燃焼室へ流れ込み、高温ガスと混合されて温度を下げる。混合されたガスが流路を通りタービンに導かれる。HeS 3の原型のデザインほどは、エンジン直径がコンパクトではないけれども、HeS 3bは十分コンパクトであった。揮発燃料ガソリンで動作するよう設計された。燃料はメインシャフト後方を支持するローラーベアリングの潤滑・冷却に用いられ、予熱されて着火を容易にしていた。 HeS 3bは1939年の初期に完成した。He 118急降下爆撃機のプロトタイプの内の1機にエンジンを取り付け飛行試験を行った。飛行試験は極秘に行われ、プロペラ動力で離着陸を行い、早朝に飛行時のみジェットエンジンを使用した。試験は順調に進んでいたが、結局タービンが焼損してしまった。 2基目のHeS 3bはHe 178の機体の完成とほぼ同時に完成した。このためエンジンは、エンジンのみの地上試験をせずに機体に搭載し直ちに飛行試験を行うこととなった。1939年8月27日にハインケル社テストパイロットのエーリヒ・ヴァルジッツ (Erich Warsitz) の手で、世界初のジェット推進機として初飛行に成功した。これは同社の世界初のロケット推進機 He 176 に遅れること2ヶ月、ホイットルらの実験機グロスター E.28/39 の初飛行よりは1年半先んじていた。 しかし HeS 3b は低出力かつ耐久性にも欠け、最高速は計画値を下回る 325 kt (600 km/h) に留まり、滞空時間も10分に制限されるなど、レシプロ機に対して明確な優位性を示せず、試作2号機 (He 178 V2) に至っては推力不足で離陸もできずに終わった。試験を終えた He 178 は He 176 と共にドイツ空軍博物館 (Luftwaffenmuseum) に展示されていたが、1943年のベルリン大空襲で焼失し、現存しない。 HeS 3 は、比例拡大版の HeS 6 を経て、戦闘機 He 280 向けの実用型 HeS 8 へと発達して行った。
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世界初の偉業
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「ハンス・フォン・オハイン」の記事における「世界初の偉業」の解説
実証モデルの HeS 1 は、相似形の単板遠心式圧縮器とタービン部を背中合わせに配置し、その間の外周に放射状バーナーとドーナツ状の直流アニュラー型燃焼器を設けた、極めて大径で粗野なものだった。1号機では当初、高速燃焼する気体水素を用い10,000rpmで静止推力115kgfと、試験結果は計画値通りでかつ安定していたが、ホットセクションが溶解したため修理した際に気化器を付加し、揮発油で運転できるよう改造された後は、様々な問題に直面した。 中間的な HeS 2 を経て、初の実用モデル HeS 3 の開発に移った。HeS 3 は高圧縮化のため動翼のみの単段軸流圧縮機を前置し、要部は鋳造製になり燃焼器も反転型として、相互のレイアウトも大きく見直された。 熱マネジメントを容易にするため、カン型燃焼器を採用した改良型 HeS 3b を1939年初夏に初火入れし、間もなく He 118 に吊下して空中試験を開始。1号機が炎上して早期に失われたため、2号機に換装した He 178 が、同年8月27日に同社テストパイロットのエーリッヒ・ワルシッツ (Erich Warsitz) の手で、世界初のジェット推進機として初飛行に成功した。 これは同社の世界初のロケット推進機 He 176 に遅れること2ヶ月、ホイットルらの実験機グロスター E.28/39 の初飛行よりは1年半先んじていた。
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