ルネサンス: エリザベス朝およびジャコビアン期
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「イングランドの演劇」の記事における「ルネサンス: エリザベス朝およびジャコビアン期」の解説
詳細は「イギリス・ルネサンス演劇」を参照 イギリス・ルネサンス期(英語版)として知られている時期(だいたい1500年から1660年にかけて)は、演劇、そしてすべての芸術の最盛期であった。最初期の英語で書かれた喜劇の候補作となるのは以下の2作品だ - ニコラス・ユーダル(英語版)作『ラルフ・ロイスター・ドイスター(英語版)』(1552年頃)と、作者不詳(ジョン・スティル(英語版)作と推定された事がある)の『ガマー・ガートンの縫針』(1566年頃)。これらは16世紀の作品とされる。 エリザベス1世治世下(1558-1603年)およびジェームズ1世治世下(1603-25年)、すなわち16世紀後期から17世紀初期にかけての期間は、ロンドンを中心とした文化(それは宮廷風でありながら大衆的でもあった)が優れた詩と演劇とを産み出した。劇作家たちはイタリアの型に興味をそそられており、イタリア人俳優の著名な集団が、ロンドンに定住していた。言語学者で辞書学者のジョン・フローリオ(英語版)(彼の父親はイタリア人であった)はジェームズ1世下の宮廷にて語学の個人教師を務めていた。フローリオはウィリアム・シェイクスピアの友人であり、影響を与えた可能性がある人物であったが、彼がイタリア語およびイタリア文化の多くをイギリスへ伝えていた。フローリオはミシェル・ド・モンテーニュの作品を英語に翻訳した人物でもあった。エリザベス朝最初期の劇作品の中にはトマス・サックヴィル作『ゴーボダック(英語版)』(1561年)と、トマス・ノートン(英語版)・トマス・キッド(英語版)による復讐悲劇『スペインの悲劇(英語版)』(1592年)が含まれる。これらの作品はシェイクスピアの『ハムレット』に影響を与えた。 シェイクスピアはこの時期、詩人・劇作家として、今のところでは無比の存在として際立っている。彼は専業の文人ではなかったし、そしておそらくはグラマースクールでの教育を受けただけである。彼が執筆を始めた時、弁護士でも政治家でもなかったし、当時のイギリス劇壇を牛耳っていた「大学才人」でもなかった。しかし彼は大変な才能があり信じがたいほど多才であった、そしてこの素性の怪しい「舞台を揺るがす者」("shake-scene")をあざけったロバート・グリーンのような、プロの劇作家たちを超える存在となった。彼自身俳優であり、自作の劇を上演する劇団の運営に深くかかわっていた。この時期の大多数の劇作家たちは、特定のジャンルを専門に扱う傾向があった、歴史劇専門、あるいは喜劇ないし悲劇専門というように。しかしシェイクスピアは、これら3つのジャンル全ての作品を産みだしたという点で珍しい存在である。彼の38作ある戯曲には、『ハムレット』(1599-1601年)、『リア王』(1605年)などの悲劇、『真夏の夜の夢』(1594-96年)、『十二夜』などの喜劇、『ヘンリー四世』第1部・第2部(1597年以前-99年)などの歴史劇が含まれる。これに加えて彼は「問題劇」や「ビター・コメディ(またはダーク・コメディ)」と呼ばれる作品を書いた。この中には『尺には尺を』(1603-04年頃)、『トロイラスとクレシダ』(1602年頃)、『冬物語』(1610-11年頃)、そして『終わりよければ全てよし』(1603-04年頃)の4作品が他の作品に交じり含まれている。彼の作品の大半が成功をおさめたとはいえ、「最も優れた作品」と見なされてきた作品をシェイクスピアが書いたのは晩年期であった。その時期に作品には『ハムレット』(1600-02年頃)、『オセロ』(1602年)、『リア王』(1604-06年頃)、『マクベス』(1599-1606年頃)、『アントニーとクレオパトラ』(1606-07年)、そして(共作者なしで)彼が書いた最後の作品『テンペスト』(1610-11年頃)が含まれる。 この時期の重要な劇作家は、シェイクスピア以外では、クリストファー・マーロウ、トマス・デッカー(英語版)、ジョン・フレッチャー、フランシス・ボーモント(英語版)、ベン・ジョンソン、そしてジョン・ウェブスターがいる。 マーロウはシェイクスピアより数か月早く誕生しただけの同時代人であるが、マーロウが自らの作品の主題として、博学者の道徳的問題に他の題材以上に注目していたという点において、両者は異なっている。マーロウは近代科学によって開かれた最先端の領域と、ドイツの題材に基づいた図画に魅了され、畏敬の念を抱いていた。そして彼は、知識への渇望と、人が生み出した科学技術の力を限界へと推し進めていこうとする欲望に取りつかれた科学者・魔術師を描いた『フォースタス博士の悲劇』(1592年頃)によって、ファウストの物語をイギリスへ紹介したのである。 ジョンソンは風刺劇、とりわけ『ヴォルポーネ(英語版)』(1605-06年)、『錬金術師(英語版)』(1610年)、『浮かれ縁日/バーソロミュー・フェア(英語版)』といった作品によってこの時代で最も知られている劇作家である。ジョンソンは宮廷仮面劇(俳優たちが仮面を着用して演じる美文調の演劇[訳語疑問点])をもしばしば執筆した。ジョンソンの美学的思想は中世にルーツがあり、登場人物の気質は四体液説に基づいている[訳語疑問点]。しかしラテン文学の典型的な人物描写からも影響を受けていた。それゆえにジョンソンは典型的人物やカリカチュアを創り出す傾向があったが、登場人物たちは「非常に生き生きと描写されているため典型的人物を超越する存在となっている」。ジョンソンはスタイル(英語版)の支配者であり、才能めざましき風刺作者であった。ジョンソンが手掛けた著名な喜劇作品である『ヴォルポーネ』は、金をだまし取らんとする人々の一群が如何にして最高の詐欺師に騙されるのかを、悪徳により罰せられる悪徳を、報酬を分け与える美徳[訳語疑問点]を読者たちに見せている。 ジョンソンのスタイルを踏襲する劇作家たちの中にはボーモント・アンド・フレッチャー(英語版)(フランシス・ボーモント(英語版)とジョン・フレッチャーを指す)も含まれる。ボーモントが手掛けた喜劇作品である『ぴかぴかすりこぎ団の騎士(英語版)』(1607-08年頃)は、隆盛する中流階級、そして特にその中でも文学趣味を口述筆記させるふりをするものの、その実文学については全く無知である成金たちを風刺している。物語の中で、食料品屋の夫婦は読み書きができない自分たちの息子に舞台で主役を演じさせようとしてプロの俳優たちと口論する。 ジャコビアン期の演劇で風刺劇の他に人気があったのは復讐劇であった。このジャンルはジョン・ウェブスターによって広められたが、シェークスピアの『ハムレット』や『タイタス・アンドロニカス』をも含む。ウェブスターの代表作である『白い悪魔』(1612年)と『モルフィ公爵夫人(英語版)』(1612-13年)は気味悪く穏やかではない作品である。ウェブスターは人間の本質を最も完膚なきまでに暗く描くことによって、エリザベス朝およびジャコビアン期の劇作家としての名声を得たのである。ウェブスターの悲劇作品は人間の恐ろしいまでの像を読者に示している。そして自作の詩「不死のささやき(英語版)」(1918-19年)の中で、T・S・エリオットは人々の記憶に残るようにこう言っている、ウェブスターはいつも「皮膚の下の頭蓋骨」(the skull beneath the skin、2行目)を見ていたと。ウェブスターの劇作品は大体18-19世紀には人々の記憶から忘れられていたが、20世紀に入ると「強い関心の復活」(a strong revival of interest) が起こり、再び人々の目に触れるようになった。
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