ルネサンスから近世における受容とは? わかりやすく解説

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ルネサンスから近世における受容

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/29 01:26 UTC 版)

ラテン語学校」の記事における「ルネサンスから近世における受容」の解説

ルネサンスによって、知的政治的経済的社会的な諸々革新ヨーロッパで起こると、中世以来ラテン語学校対す人々態度にも変化生じたルネサンス期人文主義者たちは、中世ラテン語を「野蛮な隠語」だとして批判したオランダ人文主義者デシデリウス・エラスムス1467年 - 1563年)は、ラテン語教え方が悪いとして教会非難したエラスムスローマ・カトリック教会内部における改革のためには、古典学修がなされなければならない主張した人文主義者たちの影響力大きくイタリア各地領邦国家住民たちは、新たな形態ラテン語教育求めて声を上げ始めた 。こうして、ラテン語古典文学歴史修辞弁証法自然哲学算数に、少々中世ラテン語古典ギリシア語近代諸語などを教え様々な形態の学校が、登場するようになった。この新たなカリキュラムは「人文諸学 (ラテン語: Studia Humanitatis)」と称された。イタリア有力な都市国家においてはラテン語学校教育基礎担っていた。グラマースクール文法学校)の校長職や、ラテン語文法修辞学方言教授職は、学識豊かな人文主義者によって占められた。人文主義者ひとりであったグアリーノ・ヴェロネーセ(グアリーノ・ダ・ベローナ)(Guarino Veronese:Guarino da Verona)は、人文学学修を、入門文法修辞学3段から成るものとした。人文主義者たちは、個人学識身につけること自体社会利益貢献している、という信念持っていた。このため大部分都市住民にとって、中等上の水準教育は、人文主義的教育同義であった知的活動や、政治経済関わる組織は、古典ラテン語修め人文主義的文献教育受けた働き手求めていたため、人文主義教育個人社会的地位の上昇の機会もたらした学識ある者の言語であると見なされていたラテン語は、学問世界においても尊重され盛んに用いられた。しかし、14世紀初頭時点で、既に各国俗語による文献執筆始まっていた。こうした変化結果としてまた、ラテン語俗語との交錯上級段階学修においてもしばしば生じていたことなどから、ラテン語学校が他の教育機関に対してもっていた優位性はやがて消えていった。

※この「ルネサンスから近世における受容」の解説は、「ラテン語学校」の解説の一部です。
「ルネサンスから近世における受容」を含む「ラテン語学校」の記事については、「ラテン語学校」の概要を参照ください。

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