ルネサンスから近世における受容
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「ラテン語学校」の記事における「ルネサンスから近世における受容」の解説
ルネサンスによって、知的、政治的、経済的、社会的な諸々の革新がヨーロッパで起こると、中世以来のラテン語学校に対する人々の態度にも変化が生じた。ルネサンス期の人文主義者たちは、中世ラテン語を「野蛮な隠語」だとして批判した。オランダの人文主義者デシデリウス・エラスムス(1467年 - 1563年)は、ラテン語の教え方が悪いとして教会を非難した。エラスムスはローマ・カトリック教会内部における改革のためには、古典の学修がなされなければならないと主張した。人文主義者たちの影響力は大きく、イタリア各地の領邦国家の住民たちは、新たな形態のラテン語教育を求めて声を上げ始めた 。こうして、ラテン語古典文学、歴史、修辞、弁証法、自然哲学、算数に、少々の中世ラテン語、古典ギリシア語、近代諸語などを教える様々な形態の学校が、登場するようになった。この新たなカリキュラムは「人文諸学 (ラテン語: Studia Humanitatis)」と称された。イタリアの有力な都市国家においては、ラテン語学校が教育の基礎を担っていた。グラマースクール(文法学校)の校長職や、ラテン語文法、修辞学、方言の教授職は、学識豊かな人文主義者によって占められた。人文主義者のひとりであったグアリーノ・ヴェロネーセ(グアリーノ・ダ・ベローナ)(Guarino Veronese:Guarino da Verona)は、人文学の学修を、入門、文法、修辞学の3段階から成るものとした。人文主義者たちは、個人が学識を身につけること自体が社会の利益に貢献している、という信念を持っていた。このため、大部分の都市住民にとって、中等以上の水準の教育は、人文主義的教育と同義であった。知的活動や、政治や経済に関わる組織は、古典ラテン語を修め、人文主義的文献の教育を受けた働き手を求めていたため、人文主義教育は個人に社会的地位の上昇の機会をもたらした。 学識ある者の言語であると見なされていたラテン語は、学問の世界においても尊重され、盛んに用いられた。しかし、14世紀初頭の時点で、既に各国の俗語による文献の執筆が始まっていた。こうした変化の結果として、また、ラテン語と俗語との交錯が上級段階の学修においてもしばしば生じていたことなどから、ラテン語学校が他の教育機関に対してもっていた優位性はやがて消えていった。
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