ラストヴォロフ事件とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > ラストヴォロフ事件の意味・解説 

ラストヴォロフ事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/26 16:26 UTC 版)

ラストヴォロフ事件(ラストヴォロフじけん)とは、ソビエト連邦によるスパイ事件[1]。ソ連の情報機関員とみられるユーリー・アレクサンドロヴィチ・ラストヴォロフ第二次世界大戦後の日本の内外政策に関する情報収集の任務を帯びて日本を訪れ、外務省通商産業省の事務官らを含む多数の日本人エージェントを用いて情報収集を行っていた諜報事件である[1]。ラストヴォロフが1954年昭和29年)1月24日アメリカ合衆国に亡命し、スパイ活動について暴露したことによって発覚した[1]

概要

1921年にロシア南西部のクルスク州に生まれたユーリー・ラストヴォロフは、1941年独ソ戦が始まると内務人民委員部(NKVD)に入り、そのかたわら特殊学校で日本語を学んだ。卒業後は対外諜報部に入りソ連対日参戦のための諜報情報の収集・分析に従事した。日本降伏後の1946年初め、ラストヴォロフは、日本を占領する連合国のソ連代表団の一員という名目で東京に派遣された。その後、ラストヴォロフはソ連に帰国、シベリア抑留者からエージェントを選抜する秘密委員会に入り、元将校官僚政治家の親族の徴募に少なからず成功した[2]。日本兵捕虜の多くは1950年までに日本への帰還を果たし、ソ連側としては日本に放ったエージェントを活用する機会がおとずれたのである[2][注釈 1]

1950年、ラストヴォロフは東京に戻り、二等書記官として駐日ソ連大使館に赴任した[2]。日本では、主として在日米軍に関する情報の収集に従事し、アメリカ軍人が出入りするバーレストランテニスクラブに通った。その目的はアメリカ人協力者を得ることであったが、皮肉にもソ連本国はラストヴォロフがアメリカ人に親しんでいるという疑念を抱き、のちの亡命の一因になったといわれる[3]1953年3月5日に独裁者ヨシフ・スターリンが死去すると、その腹心の内務大臣、ラヴレンチー・ベリヤ逮捕され、ソ連国家保安機関内では粛清が始まるとの噂が流れた。

1954年1月、ソ連大使館内の高官による会議が開かれ、ラストヴォロフのモスクワ召還が決定された。彼は、同年1月25日発の横浜ナホトカ便で帰国する予定であったが、その前日の1月24日、工作中に知り合ったアメリカの防諜員で英語教師のメリー・ジョーンズと接触し、アメリカ中央情報局(CIA)代表部に引き渡された[注釈 2]。ラストヴォロフは、飛行機で東京から沖縄の米軍基地を経てグアムに移された。亡命当時、ラストヴォロフは32歳であった[1]

ラストヴォロフ失踪事件について、日本のマスコミはさまざまに報じた[2][注釈 3]。当時の報道では、ベリヤ逮捕によりラストヴォロフが自身の将来に不安をいだいて失踪したのではないかと推測している[2]

アメリカ亡命後、ラストヴォロフは記者会見を開き、日本における情報収集活動の実態を暴露し、1950年までにソ連のエージェントになることを誓約させられた日本人がおよそ500名におよび、その他の情報提供者を含めた潜在エージェントは8,000人を超えることを明らかにした[1]

警視庁は、ラストヴォロフ調書にもとづいて外務省参事官を1954年8月19日に逮捕し、貿易会社社長ら関係者を任意で取り調べた[1]

1960年(昭和35年)11月30日最高裁判所は外務省参事官を国家公務員法外国為替及び外国貿易法違反で懲役8月、罰金100万円の判決を下した[1]。また、貿易会社社長に対しては、1959年(昭和34年)8月8日、最高裁が、外国為替及び外国貿易法違反で懲役8月、執行猶予2年、罰金30万円の判決を下している[1]

脚注

注釈

  1. ^ 1954年のラストヴォロフ失踪時には、ラストヴォロフが三橋事件鹿地事件に関与したという報道がなされた[2]
  2. ^ ラストヴォロフは、ロシアにバレリーナの妻がいたが、アメリカ亡命後はメリー・ジョーンズと結婚した。しかし、メリーとはその後離婚している。
  3. ^ 報道によれば、ラストヴォロフは日本語を話し、日本には知人もいて、身長は172センチメートルで肉付きがよく、顔も大きく。金髪でやや前頭部がはげあがっており、灰色の背広と濃紺のコート、チャック付の革製の深靴を着用していた[2]

出典

参考文献 

関連文献

  • 外事事件研究会『戦後の外事事件―スパイ・拉致・不正輸出』東京法令出版、2007年10月。 ISBN 978-4809011474 

関連項目 

外部リンク


ラストヴォロフ事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 04:03 UTC 版)

ユーリー・ラストヴォロフ」の記事における「ラストヴォロフ事件」の解説

「ラストヴォロフ事件」も参照 1950年、ラストヴォロフは、東京戻り二等書記官として麻布駐日大使館単身赴任した。日本では主として在日米軍に関する情報収集従事しアメリカ軍人出入りするバーレストランテニスクラブ通った目的は、アメリカ人協力者を得る事であったとされるが、このテニスクラブ入りが、皮肉にも、ラストボロフがアメリカ人接近しているという疑念本国に抱かせ、後の亡命一因になったといわれる1953年3月5日ヨシフ・スターリン死去した間もなく内務相ラヴレンチー・ベリヤ逮捕され国家保安機関内で粛清が始まるとの噂が流れた1954年1月大使館内の高官による会議開かれ、ラストヴォロフのモスクワ召還決定された。彼は、同年1月25日発の横浜ナホトカ便で帰国するはずだった。しかし、ラストヴォロフは、帰国前日1月24日工作中に知り合った英語教師アメリカ防諜員)メリー・ジョーンズ(後の妻)と接触しCIA代表部引き渡された。ラストヴォロフは、飛行機東京から沖縄に、その後グアム米軍基地移された。ラストヴォロフ失踪事件について、日本マスコミはさまざまに報じた。 それによれば身長172センチメートル肉付きがよく、顔が大きく金髪で、やや前頭部がはげあがっており、服装灰色背広濃紺コートチャック付の革靴であり、日本語話し日本友人もいるというものであった当時の報道では、ベリヤ逮捕によりラストヴォロフは将来に不安をいだいて失踪ではないか推測している。 アメリカ亡命後、ラストヴォロフは記者会見開き日本における情報収集活動実態暴露し1950年までにソ連エージェントになることを誓約させられ日本人がおよそ500名におよび、その他の情報提供者含めた潜在エージェントは8,000人を超えることを明らかにした。事件発覚後西側マスコミは、この事件センセーショナルに報道したまた、日本側の報道でも、1954年8月14日付『朝日新聞』が、外務省公安調査庁共同発表を「ラストボロフ事件の真相」という見出しをつけて掲載している。各種報道によると、ラストヴォロフ自身は、36人の日本人エージェント有していたと証言したとされる。 まもなくエージェント1人、元関東軍航空参謀少佐志位正二自首した。志位はソ連抑留中スパイになることを強要され帰国し主として日本再軍備についてラストヴォロフに報告月一回、計30回にわたって50万円受け取ったといわれている。8月14日外務省欧米局第5課事務官日暮信則、国際協力局第1課事務官庄司宏が国家公務員法100条(秘密を守る義務違反容疑逮捕され8月19日外務省経済局経済2課事務官・高毛礼茂(暗号名エコノミスト」)が同容疑逮捕された。日暮信則は、事件取調中、4階の窓から飛び降りて自殺した。高毛礼茂は懲役8月罰金100万円の判決受けたが、庄司宏は証拠不十分で無罪判決受けた同年ソ連軍事裁判所は、欠席裁判でラストヴォロフに死刑言い渡した同僚のワシーリー・ソコロフは、諜報部解雇されソ連共産党から除籍された。

※この「ラストヴォロフ事件」の解説は、「ユーリー・ラストヴォロフ」の解説の一部です。
「ラストヴォロフ事件」を含む「ユーリー・ラストヴォロフ」の記事については、「ユーリー・ラストヴォロフ」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「ラストヴォロフ事件」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ラストヴォロフ事件」の関連用語

ラストヴォロフ事件のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ラストヴォロフ事件のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのラストヴォロフ事件 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのユーリー・ラストヴォロフ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS