中国での反響
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中国での清張作品の紹介は、文化大革命が始まる前年の1965年に『日本的黒霧』として翻訳された『日本の黒い霧』に始まる。そのきっかけとなったのは、1963年11月に中国作家代表団が日本を訪れたことであった。このとき清張は、作家代表の1人だった許覚民に『日本の黒い霧』の単行本を寄贈した。許は帰国後、人民文学出版社の文潔若に翻訳を依頼した。 1965年に『日本的黒霧』は人民文学出版社から出版された。『日本的黒霧』は以下の6編で構成されている。 "帝国銀行事件"之謎(帝銀事件の謎) 下山国鉄総裁是被謀殺的(下山国鉄総裁謀殺論) "松川事件"的実質(推理・松川事件) "白鳥事件"(白鳥事件) "拉斯特沃洛夫事件"(ラストヴォロフ事件) 我為什麼要写<日本的黒霧>-代跋(なぜ『日本の黒い霧』を書いたか?あとがきにかえて) 清張が寄贈した単行本にはこの6編以外に『謀略朝鮮戦争』も収録されていたが、これを底本として翻訳された中国語版では省略されている。翻訳者である文潔若によると、この1編も翻訳したもののその中の「林彪が朝鮮戦争で負傷した」という記述が事実と相違するために出版社と相談した上で省略したという。 1980年の再版では、『朝鮮戦争的策劃』(謀略朝鮮戦争)が加えられた。2012年には新版が発行され、さらに『”木星号”遭難記』(「もく星」号遭難事件)が新たに翻訳の上で追加された。 名古屋大学大学院の尹芷汐は、『謀略朝鮮戦争』が1965年版に収録されなかった理由について次のような見解を述べている。 新中国メディアは日本の「黒い霧」事件に対して深く懸念し、一九四九年から一九六三年の松川事件の最終判決まで、継続的に報道を続けていた。作品『日本の黒い霧』は、ある程度中国メディアの報道と類似した結論に事件の推理を導きながらも、根本的な論理構成においてそうしたメディア報道と違っている。その相違を最もよく現した『謀略朝鮮戦争』の章が、一九六五年の中国で公表されるのは、難しいことであった。 — 『松本清張研究』第十五号、p.219.。
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