中国での共産党除名と投獄
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伊藤の回想によると、北京機関では国際派への妥協を唱える野坂・西沢と徳田の間に溝ができており、さらに中国共産党の内部問題も絡んで複雑な状況となっていた。1952年になると徳田の病状は悪化、9月末からは入院し、やがて意識不明となった。12月、伊藤が懸念していた通り、野坂参三は「スターリンの指令」という名目で隔離審査の対象とすることを伊藤に告げ、伊藤は軟禁された。1953年10月に徳田は死去。この間、西沢と野坂によって伊藤を「スパイ」として除名する決定がなされた。この決定は帰国した藤井冠次(元NHK報道部員・放送単一労組書記長で自由日本放送に従事)によって日本に伝えられ、9月15日付の「アカハタ」に伊藤の処分に関する中央委員声明が掲載された。伊藤はその3ヶ月後に北京でこの「アカハタ」を見せられる。伊藤はその内容を否認し、決定を拒絶したが、監獄に身柄を移された。 隔離審査以後、野坂ら党の幹部は伊藤に「スパイ」と認めれば復帰させると迫ったが、伊藤はこれに応じなかった。1955年7月、日本共産党は第6回全国協議会で伊藤の除名を再確認し、9月15日の「アカハタ」に「伊藤律について」と題する中央委員会幹部会の発表を掲載した。ここでも伊藤はスパイとしての罪状を列挙されたが、その内容は2年前の中央委員声明とは大きく異なっていた。1953年の声明では主に戦後の党指導が列挙され、ゾルゲ事件などには全く触れていなかったのに対し、この発表ではゾルゲ事件の内容が中心となり、横浜事件にも関与したなど、大部分が終戦前のものとなっていた。これについて、渡部富哉は「実際のところは日中両党の間を割いたということが理由になっていた」という関係者の証言も踏まえ、処分を決めて後から口実をつけたと推論している。日本共産党の幹部は1955年の袴田里見を最後に伊藤に面会に来なくなった。1958年の第7回党大会でも伊藤の除名が改めて確認された。伊藤は1959年に野坂ら日本共産党の代表団が訪中した際に面会を申し込んだが、拒否された。1955年以後消息不明となり、野坂らが死亡説を流したこともあって定着した。伊藤に対する逮捕状は1957年7月に国外に出たという事情がない限り公訴時効が成立したとして、治安当局は逮捕状の切り替えを請求しないことで伊藤に対する捜査を打ち切り、1960年に治安当局は様々な情報収集から「伊藤律は中共で健在」と分析結果を公表した。1970年6月に日本の公安調査庁は中国で死亡したとの情報により、伊藤に関する情報収集を打ち切った。伊藤は1960年に秦城監獄に移送され、文化大革命中は軍隊の占領下で迫害を受けた。この間、伊藤は健康を悪化させ、右目と右耳がまったくきかなくなり、腎不全に罹患した。 伊藤の投獄について、中国の関係者は「伊藤を隔離審査するという日本共産党の依頼に基づいておこなったもので、中国共産党は関与していない」としており、伊藤もそのような説明を受けている。伊藤は獄中にいる間、ずっと「三号」と呼ばれており、中国側から被疑者・被告人として名前を呼ばれることも罪名を告げられたり裁判にかけられることもなかった。これに対して日本共産党側は、伊藤の帰国直後に野坂参三が「除名した伊藤の身柄を中国側に引き渡しただけで投獄には関知していない」と主張。野坂が除名となったのち、北京機関が存在した当時に日本との窓口を務めた趙安博が1998年の回想で「野坂や袴田から伊藤を殺すよう依頼された」と明らかにした際には機関誌『前衛』において「除名後の伊藤の状況を知っていたのは野坂と袴田だけで、二人はそれを党に隠していた」という理由で「党は関知しなかった」としており、現在も関与を認めていない。
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