ポカホンタスの美談
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「バージニア州の歴史」の記事における「ポカホンタスの美談」の解説
スミスは食料の取引に成功し、落胆した開拓者達を指導したので、最初の年の植民地を持続させた功績はスミスに帰せられている。スミスは10数年後になって突然、「この際にポウハタン族に処刑されそうになったが、酋長の娘のポカホンタスに助けられた」と公言し始め、これは植民政策の美化に大いに援用された。しかし現在、ポウハタン族やその支族マッタポニ族はこれを「まったくのでたらめである」としている。 1609年8月、スミスは事故で怪我し、数ヶ月後には治療のためにイギリスに戻らざるを得なくなった。歴史の皮肉の一つで、スミスが去った後に干ばつでインディアンもイギリス人開拓者も食糧不足となり、自然災害でイギリスからの補給も妨げられた。
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ポカホンタスの美談
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/08 05:46 UTC 版)
「ジョン・スミス (探検家)」の記事における「ポカホンタスの美談」の解説
スミスの著書にある「ポカホンタスが身を挺(てい)してスミスを処刑から救った」という逸話については、スミスの著作が唯一の資料であり、1860年代以降、白人の間でその真相について疑いを表明する者が多くなった。その疑いの一つの理由は、バージニアに関する著作が2冊、早くに出版されたにも拘らず、この出来事に関する記述が無かったことである。ポカホンタスによって救われたということをスミスが書き記したのは、出来事から10年近い後の1616年、アン王妃にポカホンタスを威厳を持って待遇してくれるよう懇願した手紙の中のことであった。ポカホンタスはこの年から翌年にかけてイギリスに渡り国王に謁見していた。スミスの話を出版するまでの空白の時間は、スミスがポカホンタスの印象を強くするためにその出来事を誇張したか造り上げたという可能性がある。しかし、ルメイの最近の著作では、スミスが初期に出した本は主に地形や民俗学的な記述であり、個人的な経験を差し挟む余地が無かったので、1616年の時点まで出来事を記す理由が無かったとしている。 19世紀後半の著名なハーバードの歴史家ヘンリー・ブルックス・アダムズは、スミスの主張の中に英雄振りを見ようとした。アダムズは、スミスの述べるポカホンタスに関する話は徐々に潤色されていき、「現代には有り得ないような厚かましい嘘」を作り上げたと語った。スミスが誇張する傾向があったということでは、歴史家達が概ね一致するところであるが、スミスの証言はその人生の基本的真実を語ることでは首尾一貫していると思われる。アダムズのスミスに対する攻撃は、アメリカ南部の歴史の象徴を貶める試みであり、南北戦争に向かっていた時代の政治的背景を考えて動機付けられたものであった。アダムズの影響を受けてスミスを攻撃したジョン・パルフリーは、アメリカの基礎を築いたものとして南部の入植に対抗するニューイングランドの位置付けを評価していた。スミスの証言の真贋をめぐっては何世紀にも亘って議論が続けられることになった。 歴史家のカミラ・タウンゼンドは、同時代の人々の評価としてスミスが「評判のほら吹き」であり、大胆不敵さを装い、彼の仲間の移住者たちの中でもっともインディアンをこき使いたがる傾向を指摘している。 また、この逸話自体はオリジナルなものでもなく、実際にこの美談の「元ネタ」になったとみられるエピソードがスミス以前にある。1539年にアメリカ南東部を探検したスペイン人のエルナンド・デ・ソトは、フロリダで出会ったオランダ人捕虜のフアン・オルティスから「インディアンのヒッリヒグア酋長に生きたまま火焙りにされかけたが、酋長の娘の頼みで命を救われた」というまったく同じ筋書きの真偽不明の話を聞かされているのである。 この美談の中でスミスは「救出された」と述べているが、「実際には単に部族採用式としての、死と再生を象徴する儀式に加わっただけだ」とする専門家の意見が指摘されている。しかし、デイビッド・A・プライスが著した「ジェームズタウンの愛憎」では、これが単なる推測に過ぎずポウハタンの儀式に付いては(白人側には)ほとんど知られていないこと、北アメリカの他のインディアンにはそのような儀式に関する証拠がないことを挙げている。 これに対し、歴史家アンジェラ・L・ダニエル・“シルバースター”は、ポウハタン族の構成部族のひとつマッタポニ族のリンウッド・“リトルベアー”・カスタロー博士との共著の中で、ポカホンタスが当時11歳だったことを挙げ、「ポカホンタスは子供であり、子供がそのような式典・儀式に出席することは許されていない」と述べ、この記述を否定しており、さらにカスタロー博士の兄でマッタポニ族の酋長カール・“ローンイーグル”・カスタローは、この著書に寄せて、「インディアンに対する差別と、我々の見解が嘲笑されるのではないかという恐れのため、我々はこれまで、ポカホンタスの実話を語ることを考えてこなかった」と述べている。 また、スミスは「ポウハタン酋長が彼の処刑を命じた」と書いているが、そもそもインディアンの酋長は「指導者」ではなく、またインディアン社会に「処刑を命じる」ような権力者はいない。また、これが「儀式」だったとすれば、これを取り仕切るのは呪い師であって、酋長ではない。ポウハタン酋長が部族民にスミスの「処刑」を「命令する」というのもインディアンの社会ルールからして不自然である。 ジョン・スミスはインディアンの酋長を首長のような「部族長」ととらえ、終始一貫してそのように扱い、植民地拡大を有利にし、部族を支配するために酋長を人質にし、命令し、脅迫している。しかしインディアンの社会は合議制民主主義であり、酋長は「調停者」であって「支配者」ではない。植民地領土についてスミスがポウハタン酋長と取り決めをしたとしても、これは部族民の総意をとりつけたものではない。この地域のインディアンは、部族の決めごとはすべて「ロングハウス」という会議場の中で、「大いなる神秘」のもと、「会議の火」を囲んで「聖なるパイプ」を回し飲みし、酋長や部族民の合議のもとに決定するのである。そもそもスミス自身がインディアンの社会を理解していない。 スミスら白人がポウハタンの土地に上陸したとき、ポウハタン酋長たちポウハタン族はこの侵略者たちを歓待し、「兄弟」として食べ物を分け与え、彼らを援助した。インディアンのすべてを共有する文化のおかげで生き延びたスミスは、彼らを「裸の野蛮人」と呼び、謀略を駆使してその領土を奪い、虐殺したのである。 ポカホンタスの出身部族ポウハタン族のロイ・クレイジーホース酋長は、部族のHPで「ポカホンタスの神話」と題し、スミスやロルフが「ポウハタンを食い物にした」と述べ、またこのなかでロンドン時代に偶然スミスと会ったポカホンタスが激怒し、彼を「嘘つき」と叫んだ記録を指摘し、「スミスはロンドンで関心を得るためにこのような作り話を捏造したのだろう」としている。 真実が何であったにしろ、このポカホンタスとの出会いは、スミスを初めとするジェームズタウンの植民者とインディアンとの友好関係をほんの一時期だけ築いた。しかし、武力を背景とした白人の植民地拡大は、インディアンにとっては侵略に他ならなかった。白人と敵対するインディアン部族は次第に増え、植民地戦争はすぐに再開されていく。
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