ポカホンタスの「美談」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/26 07:23 UTC 版)
「ポカホンタス」の記事における「ポカホンタスの「美談」」の解説
ポカホンタスの死後、ジョン・スミスは『New England Trials』(1622年) および『The Generall Historie』(1624年) を出版し、ここではじめて「ポカホンタスに助けられた」という内容が含まれた手記を発表した。その内容は、「ポウハタン酋長によって百叩きの刑に処せられ、殴り殺されるところだったのを、酋長の娘ポカホンタスが自分に同情して助命嘆願し、これを聞いたポウハタン酋長が刑の執行を止め釈放してくれた」というものである。 スミスが植民地報告書に書いた「美談」は、ロンドン政府にジョン・スミスを部族の「友人」として納得させるための象徴的なエピソードとして使われた節があると主張する者もいる。19世紀までに「野蛮な酋長から白人を救った」ポカホンタスはアメリカ合衆国において重要な象徴的存在となり、彼女を巡る多くのロマンス小説は、洗礼前から「自分たちの文化と似通った振る舞いをする友好的なネイティブアメリカン」として彼女を描いた。 当時ポカホンタスはわずか11歳であり、しかもジョン・スミスはその年イングランドから到達したばかりであり、古くからの仲ではなかった。スミスもまだその時はポウハタン語を完全には理解していなかった。彼が「ネイティブアメリカンの娘に助けられた」と主張し始めるのはポカホンタス死後のことである。 歴史家のカミラ・タウンゼンド(Camilla Townsend)は、スミスが「処刑されかけた」としている状況を「単に部族採用式などの儀式のひとつだったのではないか」と説明している。 また「儀式のひとつ」だったとの仮説にしても、歴史家アンジェラ・L・ダニエル・“シルバースター”は、「ポカホンタスは子供であり、子供がそのような式典・儀式に出席することは許されていない」と述べ、この記述を否定している。 ポウハタン族はスミスのこの武勇伝を「全くの作り話」として彼らのウェブサイトで公式に否定している。彼らは「スミスやロルフはポカホンタスを利用し、彼らと友好を結んだポウハタン族を裏切り、食い物にした」と抗議している。
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