ポカホンタスの拉致
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 07:11 UTC 版)
「バージニア植民地」の記事における「ポカホンタスの拉致」の解説
1612年、ポカホンタスはポトマック族を訪問中、イギリス船に誘い出されて拉致監禁された。イギリス側は彼女を人質として、捕虜となっていたイギリス人の解放、奪われた武器の引き渡し、トウモロコシによる多額の賠償の支払いを要求した。ポウハタン側が数ヶ月回答を留保している間、ポカホンタスは入植地で宣教師から英語を教え込まれ、洗礼を受けさせられた。 1614年、ポカホンタスは釈放を条件にジョン・ロルフの求婚に応じ、「レベッカ・ロルフ」という英名をつけられた。結婚式には彼女の親族も何人か出席した。ポウハタンも2人の結婚を認め、儀礼用の鹿革の衣服を贈って祝福した。これが契機となり、入植者とポウハタン連合との和平が成立した。 ヴァージニア植民地の出資者たちは、ジェームズタウンにイングランド本国からこれ以上新しい入植者を募るのも、このような冒険的な事業に対する投資家を探すのも困難になったことを悟った。そこでポカホンタスをマーケティングのエサにして、「“新世界”のインディアンが文明に馴らされたため、もはや植民地は安全になった」とイギリス国民を納得させようとした。 1616年、ポカホンタスはロルフとともにイングランドに連れ去られ、ジェームズ1世とその家臣たちに謁見させられた。彼女はそこで「インディアンの姫」と紹介され、イングランドにセンセーションを巻き起こし、新世界アメリカの最初の国際的有名人となった。そうして、より多くの投資と王の関心をヴァージニア植民地にもたらす試みは大成功に終わった。 インディアンの社会に「王族」など存在しないから、ポカホンタスを「姫」とするこのプロパガンダは全くの誤りである。イギリス白人は終始一貫してポウハタンを野蛮な帝国と見なし、そのように扱った。 しかしながら、インディアンの土地で育った彼女にとってロンドンの空気は汚れすぎていて、肺を侵された。ロルフは彼女の健康回復のためバージニアに帰ろうとしたが、病状は急速に悪化し、ポカホンタスは1617年3月に死去した。(死因は天然痘、肺炎、または結核など、資料により異なる。) ポカホンタスの死を知らされたポウハタン酋長もまた元気を失い、調停者としては弟オペチャンカナウが後を引き継いだ。そして1618年に死去した。オペチャンカナウはかつてスミスに短銃を突き付けられて、トウモロコシ20トンと引き換えに人質にされたことがあるが、それでも寛大に白人入植者に対し、ポウハタン族が住んでいない地域への入植を認めるなど、植民地側に好意を示した。オペチャンカナウはまた、白人のインディアンに対するキリスト教の布教にも協力的な態度をとった。もちろん酋長は支配者ではないので、これはオペチャンカナウ個人の好意にすぎない。
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