ボウリング場の戦い(多富洞の戦い)
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「釜山橋頭堡の戦い」の記事における「ボウリング場の戦い(多富洞の戦い)」の解説
詳細は「大邱の戦い(英語版)」、「ボウリング場の戦い(英語版)」、および「多富洞の戦い (1950年8月)」を参照 韓国第1師団は北朝鮮軍に対する遅滞戦闘を7月24日まで続けていたが、北朝鮮第15師団の出現による戦線整理で後退した。7月25日に韓国第2軍団隷下で再編成を行い6,000名規模の兵力となり、師団長の白善燁は大佐から准将に昇進した。その後、第1師団は釜山橋頭堡に後退して、倭舘北側から洛井里にかけての洛東江岸を占領し、釜山円陣の守備に就いた。南から第15連隊(崔榮喜大佐)、第11連隊(金東斌大佐)、第12連隊(朴基丙大佐、金點坤中佐)を配備し、五常学校に司令部を置いた。しかし北朝鮮第13師団、第15師団の攻勢で師団は後退した。 8月6日頃、白准将は大邱防衛の抵抗線を定めるにあたり、北朝鮮軍の進軍ルートを大邱の中心部から北へ28キロメートルほどの山間の集落、多富洞(タブドン)の隘路と予測し、第1騎兵師団が担当する倭館の303高地(鵲烏山)からはじまりおよそ20キロメートルの防御線を決定した。韓国第1師団の正面には、北朝鮮第13師団、第15師団の全力、第105戦車師団の主力が指向し、のちに北朝鮮第1師団の一部と第3師団の主力が追加された。さらに金泉には第2師団が集結中であり、韓国第1師団は4個師団以上の北朝鮮軍を受け持つことになった。戦力比は兵力は3倍、火力は4倍、さらに火砲の性能や戦車の有無を考慮すれば6~7倍の戦力差があり、北朝鮮軍が優勢であった。 この戦線を突破すれば大邱まで6時間以内の距離で、大邱の陥落は釜山円陣内の環状交通網を分断し、釜山橋頭堡そのものを崩壊させかねなかった。韓国第1師団は8月13日に現地に展開し、多富洞から南に8キロメートルの東明国民学校に司令部を置いた。8月中旬から激しい戦闘が続き、高地の取り合いにより戦線は前後した。 韓国軍は火力に乏しく北朝鮮軍数個師団の攻撃に苦しみ、第8軍に繰り返し増援要請を出していた。8月17日、霊山での戦いを終えたアメリカ第27連隊が大邱を経由し多富洞に急遽移動した。第27連隊のマイケレス中佐は大邱で第8軍ウォーカー中将の直接命令を受けていた。マイケレス中佐の部隊は第27連隊を中核として戦闘団を形成しており、完全編成の歩兵3個大隊、第73戦車大隊C中隊(M26パーシング23輌)、第37野砲大隊(155 mm 榴弾砲12門)、第8野砲大隊(105 mm 榴弾砲12門)、弾薬も無制限に使用できた。専属の戦術航空統制班が配属されており、韓国第1師団よりも強力な戦力を持つ連隊戦闘団であった。 白准将とマイケレス中佐は共同して陣地を構成し、谷間の左右に韓国軍、谷底の幅1キロメートルほどの正面にアメリカ軍が陣地を構えた。これは朝鮮戦争で最初の米韓連合の作戦で、アメリカ軍が韓国軍を指揮するものではなく、韓国軍師団にアメリカ軍連隊が配属された対等な立場での増援だった。 8月18日夜から北朝鮮第13師団が攻撃を開始、戦車を先頭に激しい攻撃が繰り返された。狭い谷間で開戦以来初めての戦車対戦車の戦闘が行われた。道路上を前進してくるT-34-85の発砲音が谷間にこだまし通過する列車のような音を立て、砲弾が飛翔し炸裂する様からこの戦場は「ボウリング場」と呼ばれるようになった。昼は第5空軍による空爆により北朝鮮軍の行動が抑えられ、夜は北朝鮮軍が攻撃というパターンが七日間繰り返された。 8月19日、北朝鮮の攻勢が多富洞に向いていると判断した第8軍ウォーカー中将は第23連隊(英語版)を増派し、第27連隊の後方に縦深陣地を築いた。19日夜半には韓国軍第8師団第10連隊(高根弘中佐)の先遣隊である第2大隊(金淳基少佐)も増援された。白准将は配備を明日にし、第2大隊は東明学校の校庭に露営した。 8月20日1時頃、架山方面から北朝鮮第1師団第14連隊が浸透し、師団司令部を襲撃した。白准将の指示で第2大隊は敵部隊を撃退した。また同日、北朝鮮第15師団が義山方面に転進した。 8月21日、アメリカ第27連隊の左翼側に布陣していた韓国軍1個大隊が無断で撤退する事態になり、戦線が崩壊しかかった。白准将はマラリアの高熱がありながらも自ら督戦し、突撃に参加し高地を奪回した。夜、北朝鮮軍が大夜襲を仕掛けたが、アメリカ第27連隊が撃退した。 8月22日、韓国第15連隊が河岸の堤防を確保。韓国第11連隊に北朝鮮第13師団砲兵指揮官の鄭鳳旭中佐が投降した。鄭の供述や所持していた作戦図によって砲兵陣地が明らかになり、アメリカ空軍と105ミリ砲によって破壊した。 8月23日、北朝鮮第14連隊が架山方面から浸透、アメリカ第23連隊と砲兵部隊の陣地を襲撃した。第23連隊は数次の夜襲を撃退し、夜が明けると第5空軍の支援と共に反撃し、重装備を持たない北朝鮮軍を撃破した。午後に第10連隊主力が到着。さらに韓国第12連隊が夜間攻撃を行い、遊鶴山を奪回した。 8月27日、韓国第10連隊が架山一帯に浸透した北朝鮮第14連隊を撃滅。 8月30日、韓国第1師団は陣地をアメリカ第1騎兵師団に引き継いだ後、新寧の陣地に移動した。
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