ベトナム戦争やニクソン政権の誕生と集団的自衛権の概念の変化
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「日本の集団的自衛権」の記事における「ベトナム戦争やニクソン政権の誕生と集団的自衛権の概念の変化」の解説
集団的自衛権を巡る状況が大きく変わるのは、1960年代後半に激化したベトナム戦争である。当時米国領であった沖縄の米軍基地から出撃した戦闘機が連日北爆を行っており、国会ではこの北爆の是非が、集団的自衛権と絡めて度々議論された。社会では反戦運動が高まり、集団的自衛権そのものに対する印象も悪化した。当時の佐藤栄作政権は、沖縄返還の交渉を進めるために、政治的リスクをとって米軍の作戦を支持していたが、沖縄返還以降も北爆が継続した場合には、在日米軍の行動に関する事前協議制度の適用対象となることにより、更なる政治的リスクを要求される可能性があった。 1969年1月、佐藤政権はリチャード・ニクソン政権の誕生を機に沖縄返還交渉を始めたが、その際対外交渉と国内への説明の双方で、政府のスタンスを使い分ける態度をとる。米国との交渉においては、沖縄返還後は沖縄基地においても事前協議制度が適用されることになるが、制度を「弾力運用」することによって、運用上は本土を含めた全基地を事実上自由使用できるようにした。これによって米国は、日本が主体的に北爆の支持を行うことで、国際的な責任感を共有するようになった、と評価した。しかし国会答弁においては、事前協議で了承するか否かの判断基準は国連憲章で機械的に行い、更に、日本の安全保障と無関係な米軍の行動には、日本は実質的には関与しない、との立場をとり、ベトナム戦争には形式的な事前協議を除いて日本側は関知しない立場を強調した。 1969年2月19日、高辻正己内閣法制局長官は 集団的自衛権というものは、国連憲章第51条によって各国に認められておるわけでございますけれども、日本の憲法9条のもとではたしてそういうものが許されるかどうか、これはかなり重大な問題だと思っております。われわれがいままで考えておりますことから申しますと……他国の安全のために、たとえその他国がわが国と連隊関係にあるというようなことがいわれるにいたしましても、他国の安全のためにわが国の兵力を用いるということは、これはとうてい憲法9条の許すところではあるまいというのが、われわれの考え方でございます。 — 1969年2月19日、衆議院予算委員会 と答弁、集団的自衛権の合憲性に初めて否定的な見解を示した。以降も日本政府は、集団的自衛権は違憲である、という趣旨の答弁を一貫して行うようになる。 この一連の工作を経て、国内の基地からの米軍機の出撃は集団的自衛権の枠外の事例(日本政府の関与の範囲外で米軍が勝手に行っている行動)であり、更にそもそも集団的自衛権は違憲である、という二重の論理で、佐藤政権は国内における政治的リスクから距離を置いた。この直前に安田講堂事件が起こるなど、全共闘による大学紛争がピークに達しており、高辻長官率いる内閣法制局主導の解釈改憲に忠実に振る舞うことの政治的メリットが大きかったためである。米国側も、基地の使用権を事前協議制度に握られている以上、ベトナム紛争のリスク回避を図る佐藤の立場を黙認せざるを得なかった。 田中角栄政権下での1972年10月14日、集団的自衛権の合憲性についての解釈を発表した。 国際法上、国家は、いわゆる集団的自衛権、すなわち、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにかかわらず、実力をもって阻止することが正当化されるという地位を有しているものとされており、国際連合憲章第51条、日本国との平和条約第5条(c)、日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約前文並びに日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との共同宣言3第2段の規定は、この国際法の原則を宣明したものと思われる。そして、わが国が国際法上右の集団的自衛権を有していることは、主権国家である以上、当然といわなければならない。ところで、政府は、従来から一貫して、わが国は国際法上いわゆる集団的自衛権を有しているとしても、国権の発動としてこれを行使することは、憲法の容認する自衛の措置の限界をこえるものであって許されないとの立場にたっているが、これは次のような考え方に基づくものである。憲法は、第9条において、同条にいわゆる戦争を放棄し、いわゆる戦力の保持を禁止しているが、前文において「全世界の国民が……平和のうちに生存する権利を有する」ことを確認し、また、第13条において「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、……国政の上で、最大の尊重を必要とする」旨を定めていることからも、わが国がみずからの存立を全うし国民が平和のうちに生存することまでも放棄していないことは明らかであって、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛の措置をとることを禁じているとはとうてい解されない。しかしながら、だからといって、平和主義をその基本原則とする憲法が、右にいう自衛のための措置を無制限に認めているとは解されないのであって、それは、あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最小限度の範囲にとどまるべきものである。そうだとすれば、わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られるのであって、したがって、他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されないといわざるを得ない。 — 1972年10月14日、参議院決算委員会提出資料 この見解文書によって、「必要な自衛の措置」は「必要最小限度の範囲にとどまるべき」なので、集団的自衛権は違憲である、という論理構成が定まった。 1981年、政府は稲葉誠一衆議院議員(日本社会党)への答弁書において、集団的自衛権と憲法9条との関係について、政府の解釈を端的にまとめている。 我が国が、国際法上、このような集団的自衛権を有していることは、主権国家である以上、当然であるが、憲法9条の下において許容されている自衛権の行使は、我が国を防衛するため必要最小限度の範囲にとどまるべきものであると解しており、集団的自衛権を行使することは、その範囲を超えるものであって、憲法上許されないと考えている。 この時点で政府解釈では、 個別的自衛権=必要最小限度の範囲内の自衛措置=合憲 集団的自衛権=必要最小限度の範囲を超える自衛措置=違憲 というラインが自明のものとして採用されており、合憲・違憲の判断基準が海外派兵の有無から必要最小限度のラインに変化しており、さらにそれにあわせて個別的・集団的自衛権が日本国憲法の独自の基準で再定義されていた。更に、かつて(政府答弁で)合憲とされていた集団的自衛権(基地の提供や物資の援助など)の取り扱いについては、「当時は集団的自衛権であるとみなしていたが、現在では集団的自衛権の概念の変化に基づき、これらを集団的自衛権とはみなさないものとする」趣旨の答弁を行い、1972年以前の憲法解釈との整合性に優先して、「現在の日本政府の解釈上の集団的自衛権を、日本は行使できない」という自家撞着的結論が定められた。
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