フェミニズムの視点から見た日本の家族形態の変化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 04:35 UTC 版)
「家族」の記事における「フェミニズムの視点から見た日本の家族形態の変化」の解説
特にフェミニズムにおいては、家父長制という概念を通して家族の歴史がたどられる。リサ・タトル(米国、1952年生)著『フェミニズム事典』(明石書店)では「家族は、家父長制と女性に対する抑圧を存続させる主要な制度である」との説明を採用している。 戦前から終戦までの歴史と変容 戦前の日本の家族は家制度に基盤をおき、地域社会はもとより国家とつながる「イエ」を形作っていた。「家制度」は16世紀に成立し、「家」と「家父長制」の二つを大きな要素としていた。「イエ」という親族集団の一体的結合と継続的発展を重視し、家族の人々を「イエ」に従属する存在とみなした。家父長権の相続(家督相続)、本家・分家などの階層性、それらを対外部的にひとまとまり(ウチ)としてとらえる心性・制度であった。また、家はひとつの経営体でもあり、その維持と継続が最も重視された。このため、長子、主に長男は家にとどまって跡取りとなり配偶者をめとり、先代が死去すると代わって家長となった。「家を継ぐ」という観念がこの時代に発生したことからもわかるとおり、家は跡取りの単独相続であり、また財産は家長ではなく家そのものに属していた。農村部においては、次男や三男など長男以外の男子や女子は、富農層では分家として財産の一部を分与され村内に一家を立てることもあったが、中農層以下のものは独立や婚姻によって村を離れることが多かった。こうした家は地域集団や共同体の基本的な構成単位であり、周囲との密接な関係の上で存続していた。一方離婚は比較的自由であり、この傾向は明治時代に入っても続いた。1883年には人口1000人あたりの普通離婚率が3.39となり、おそらく世界最高の離婚率となっていて、これは1896年の民法制定で離婚が抑制され激減するまで続いた。 明治時代に入り、1896年には民法が制定され、そのうちの第4編「親族」と第5編「相続」(いわゆる家族法)によって家制度および戸主権は強化・固定された。ただし、理念的には直系家族が主とされていたものの、次男以下の独立家族が多かったことや父母の寿命が短かったことから、日本では戦前から比較的小規模な核家族が最も一般的な家族形態であり、1920年の時点で過半数の世帯が核家族化していた。戦前の農村では大家族制度が主流であったという認識は(一部の地域を除き)誤りである。一方、大正時代に入ると都市部の新中産階級を中心に、ヨーロッパの「近代家族」の概念が普及した。 終戦から1950年代まで 太平洋戦争の終戦を機に民法の改正により家制度は廃止された。経済復興と給与労働者の増加により家庭は家内労働の場という側面が薄まり、家庭の教育的役割が強調されていく。また直系家族に代わり核家族が主な家族理念とされたが、旧来の家族概念も残存した。 現代 1950年代以降(高度経済成長期)の家族変動の最も顕著なものは同居親族数が減少したこと、および共同体の力の減退に伴って家族の基盤に変容が生じたこと、の二つの特徴があげられる。多数の人口が農村から都市へ移動し、兄弟の数も減った。戦後社会で育った子供たちはすでに中年から高齢にさしかかり、不況の中で社会から孤立する者が急速に増え無縁社会という言葉まで生まれた。 1980年代以降は、夫婦の共働きも一般化しつつあり、1991年以降男性片働き世帯と共働き世帯の世帯数は拮抗するようになって、1997年以降は共働き世帯が完全に上回るようになった。それによって育児や子育てが保育園や学童クラブ、地域の野球やサッカー、スイミングスクールなどのスポーツクラブ、学習塾などに一時的に委託されることも増え、性別役割分業の見直しが進みつつある。また、高齢化社会に伴う老親の扶養の問題も深刻化してきた。 また、女性の社会進出にともない、女性が旧姓を通称として用いることが多くなってきたほか、選択的夫婦別姓制度導入などを求める声も大きくなって来ている。
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