パンチェン・ラマ10世の諌言
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「大躍進政策」の記事における「パンチェン・ラマ10世の諌言」の解説
詳細は「パンチェン・ラマ10世」を参照 チベットに対する中国共産党政府の抑圧政策の実状に触れるにつれ、パンチェン・ラマ10世は1962年、中華人民共和国のチベット支配を批判した諌言「七万言上書(7万字の覚書)」を上奏した。七万言上書は長らく極秘文書であったが、のちに発見された。 1962年5月18日、パンチェン・ラマはチベット政府首班の地位を周恩来国務院総理に譲る。李維漢統一戦線部部長は3カ月間諌言を受けて改善を実行しようとしたが、同年8月に毛沢東は中止を指示し、李はパンチェン・ラマとの結託を批判され、パンチェン・ラマも自己批判を命じられ、1963年にラサで50日間の闘争集会に掛けられたあと、北京に送還された。なお1960年に法学者国際委員会報告書は、チベットにおいてジェノサイド(民族絶滅を意図する大虐殺)があった明らかな証拠があると発表しており、七万言上書はこの見解を裏付けるものとなった。この七万言上書について周恩来は「事実ではない」と答えている。 七万言上書は1959年3月のチベット動乱(1959年のチベット蜂起)に対する中共政府の過剰な報復的処罰を批判している。 大躍進政策によるチベットの惨状についてパンチェン・ラマは周恩来国務院総理に改善を求めている。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}チベットの多くの地域で、民衆が餓死している。地域によっては、民衆が全滅してしまった所もあり、死亡率は恐ろしく高い。過去においてはチベットは、暗く野蛮な封建社会であった。しかし、このような食料不足を経験したことは無かった。特に仏教が広まってからは、そうであった。チベット地区の民衆は、極端な貧しさの中に生きており、老いも若きも殆どが餓死寸前である。あるいは非常に衰弱し、病気に抵抗できなくて死んでいる また、公共食堂での食事を義務づけられた際、チベット民衆は1日当たり180グラムの、草や葉っぱや木の皮などが混じった小麦が配給されるのみで、パンチェン・ラマは次のように書いている。 この恐るべき配給は、命を支えるのに充分でなく、民衆は飢餓の恐ろしい苦痛に苛まれている。チベットの歴史において、こんなことは起きたことがない。民衆は夢の中でも、こんな恐ろしい飢餓を想像することはなかった。地域によっては、1人が風邪を引くとそれが数百人に伝染し、それによって多数の人が死んで行く。(中略)チベットでは1959年から1961年までの2年間、牧畜と農業はほとんど完全に停止させられた。遊牧民は食べる穀物が無く、農民は食べる肉もバターも塩も無かった。いかなる食料も材料も、輸送することが禁じられた。それだけでなく民衆は出歩くことを禁止され、携帯用のツァンパ(麦焦がし)袋も没収され、多くの人々がそれに抵抗してあちこちで抗争が起こった カム地方でも1965年まで飢餓が続き、パンチェン・ラマが批判した惨状が継続していた。他にもパンチェン・ラマはチベット民族の消滅を危惧している。 パンチェン・ラマ10世は文化大革命の際に紅衛兵に拘束されて1968年から1978年まで10年間投獄され、出獄後も1982年まで北京で軟禁された。パンチェン・ラマ10世は1989年の演説で「チベットは過去30年間、その発展のために記録した進歩よりも大きな代価を支払った。二度と繰り返してはならない一つの過ち」と自説を述べた。これは中共政府の用意した原稿を無視した演説であった。その発言のわずか5日後、パンチェン・ラマ10世は死去した。中華人民共和国政府は死因を心筋梗塞と発表したが、チベット亡命政府や西側のチベット独立運動家などは暗殺説を主張した。
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パンチェン・ラマ10世の諌言
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「チベット問題」の記事における「パンチェン・ラマ10世の諌言」の解説
詳細は「パンチェン・ラマ10世」を参照 チベットに対する中国政府の抑圧政策の実状に触れるにつれ、パンチェン・ラマ10世は1962年、中国のチベット支配を批判した諌言「七万言上書(7万字の覚書)」を上奏した。七万言上書は長らく極秘文書であったが、のちに発見された。 パンチェン・ラマは1962年5月18日に、チベット政府首班の地位を周恩来総理に譲る。中国統一戦線部部長リー・ウェイハンは、3カ月間諌言を受けて改善を実行しようとしたが、同1962年8月、毛沢東主席は中止を指示し、リーはパンチェン・ラマとの結託を批判され、パンチェン・ラマも自己批判を命じられ翌1963年、ラサで50日間の闘争集会に掛けられたあと、北京に送還された。 なお1960年に法学者国際委員会報告書は、チベットにおいてジェノサイド(民族絶滅を意図する大虐殺)があった明らかな証拠があると発表しており、七万言上書はこの見解を裏付けるものとなった。この七万言上書について周恩来は「事実ではない」と答えている。 七万言上書は1959年のチベット動乱(1959年のチベット蜂起)に対する中共政府の過剰な報復的処罰を批判している。 どれ位の数の人が逮捕されたのか、知る術もない。各地域で、それぞれ1万人以上の人が逮捕されている。善人であろうと悪人であろうと、無罪であろうと有罪であろうと、皆逮捕されてしまった。世界のいかなる場所に存在する、いかなる法制度にも合致しないことだ。地域によっては、男性の大多数が逮捕され監獄に入れられてしまったので、殆どの仕事が女性や老人また子供によってなされている このほか、連帯責任を追及する処罰によって、親戚が決起に加わったという理由で処刑された者がいること、政治囚は収監されたあと、意図的に過酷な環境に置かれ死んでいる、不自然な死が極端に多い、と報告している。 大躍進政策によるチベットの惨状についてパンチェン・ラマは周恩来国務院総理に改善を求めている。 チベットの多くの地域で、民衆が餓死している。地域によっては、民衆が全滅してしまった所もあり、死亡率は恐ろしく高い。過去においてはチベットは、暗く野蛮な封建社会であった。しかし、このような食料不足を経験したことは無かった。特に仏教が広まってからは、そうであった。チベット地区の民衆は、極端な貧しさの中に生きており、老いも若きも殆どが餓死寸前である。あるいは非常に衰弱し、病気に抵抗できなくて死んでいる また、公共食堂での食事を義務づけられた際、チベット民衆は1日当たり180グラムの、草や葉っぱや木の皮などが混じった小麦が配給されるのみで、パンチェンラマは次のように書いている。 この恐るべき配給は、命を支えるのに充分でなく、民衆は飢餓の恐ろしい苦痛に苛まれている。チベットの歴史において、こんなことは起きたことがない。民衆は夢の中ででも、こんな恐ろしい飢餓を想像することもできなかった。地域によっては、1人が風邪を引くとそれが数百人に伝染し、それによって多数の人が死んで行く。(中略)チベットでは1959年から1961年までの2年間、牧畜と農業は殆ど完全に停止させられた。遊牧民は食べる穀物が無く、農民は食べる肉もバターも塩も無かった。いかなる食料も材料も、輸送することが禁じられた。それだけでなく民衆は出歩くことを禁止され、携帯用のツァンパ(麦焦がし)袋も没収され、多くの人々がそれに抵抗してあちこちで抗争が起こった カム地方でも1965年まで飢餓が続き、パンチェンラマが批判した惨状が継続していた。他にもパンチェンラマはチベット民族の消滅を危惧し、また中国共産党が唯物史観に則り、宗教をアヘンまたは前時代の遺物として根絶しようとして、中国国内の寺院等も破壊したことについて、チベットの各種寺院がすでに文化大革命以前に破壊されていたことを、パンチェンラマは記録している。 かつて2500カ寺の僧院が存在していたが、今では70カ寺が残っているだけであり、93パーセントの僧侶・尼僧が追放された。共産党の幹部たちは、少数の人々を使って宗教を非難し、それがチベット大衆の意見であるとの誤った見解を導きだし、宗教を抹殺する時機が到来したとの結論を出す。そのために覚醒を生み出す仏の教えは、チベット全土で栄えていたが、今や我々の目の前でチベットの大地から消し去られようとしている。私を含めた90パーセントのチベット人は、これには決して耐えられない パンチェン・ラマ10世は文化大革命の際に紅衛兵に拘束されて1968年から1978年まで10年間投獄され、出獄後も1982年まで北京で軟禁された。パンチェン・ラマ10世は1989年の演説で「チベットは過去30年間、その発展のために記録した進歩よりも大きな代価を支払った。二度と繰り返してはならない一つの過ち」と自説を述べた。これは中共政府の用意した原稿を無視した演説であった。その発言のわずか5日後、パンチェン・ラマ10世は死去した。中華人民共和国政府は死因を心筋梗塞と発表したが、チベット亡命政府や西側のチベット独立運動家などは暗殺説を主張した。
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