パンチェン・ラマ10世による諌言と投獄
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「チベットの歴史」の記事における「パンチェン・ラマ10世による諌言と投獄」の解説
1949年以来、中国共産党はパンチェン・ラマ10世を厚遇し、ダライ・ラマに対抗する親中国派のチベット民族指導者に仕立て上げようとしてきた。パンチェン・ラマ10世はチベット自治区準備委員会主任、人民代表委員を歴任した。胡錦濤とも親交があった。チベット人社会はパンチェン・ラマ10世を中国共産党の傀儡とみなすこともあった。しかし、中国政府のチベット抑圧政策の実状に触れるにつれ、パンチェン・ラマ10世は次第に自立性を発揮し、1962年、パンチェン・ラマ10世は中国のチベット支配を批判した内容の七万言にものぼる諌言を上奏した。さらに1964年にラサで催された大祈願祭(モンラム・チェモ-)でダライ・ラマを批判せよとの中国共産党の命を受けて演壇に立った彼は、公衆に向かって「ダライ・ラマ法王はチベットの真の指導者であり、法王は必ずやチベットに復帰されるであろう。ダライ・ラマ法王万歳!」と演説した。これらの行動によってパンチェン・ラマ10世は共産党の激怒を買い、自己批判を強要され、文化大革命の際には紅衛兵に拘束されて1968年から1978年2月25日まで投獄された。
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