七万言上書
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 07:28 UTC 版)
「パンチェン・ラマ10世」の記事における「七万言上書」の解説
しかし、チベットに対する中国政府の抑圧政策の実状に触れるにつれ、パンチェン・ラマ10世は次第に自立性を発揮することになる。1962年、パンチェン・ラマ10世は中国のチベット支配を批判した内容の七万言にものぼる諌言「七万言上書(中国語版)(7万字の覚書)」を上奏した。七万言上書は長らく極秘文書であったが、のちに発見された。 パンチェン・ラマは1962年5月18日に、チベット政府首班の地位を周恩来首相に譲る。中国共産党統一戦線部部長・李維漢は、3カ月間諌言を受けて実行したが、同1962年8月、毛沢東は中止を指示し、李維漢はパンチェン・ラマとの結託を批判され、パンチェン・ラマも自己批判するように命令された。翌1963年、ラサで50日間の闘争集会に掛けられたあと、北京に送還された。 また、1960年に法学者国際委員会報告書は、チベットにおいてジェノサイド(民族絶命を意図する大虐殺)があった明らかな証拠があると発表しており、七万言上書はこの見解を裏付けるものとなった。 なお、この「七万言上書」での報告を受け取った周恩来は「事実ではない」と答えている。 「七万言上書」での提案は、のちに1980年に胡耀邦によってチベットで実行が試みられ、開放政策へと変更された。そのことで、チベットは観光地としても開放され、また青蔵鉄道なども建設されたが、他方、独立運動、または中国政府を批判するチベット人に対しては、厳しい弾圧を継続し、国際社会から中国は度々批判されている。 「チベット問題」、「チベット」、および「チベットの歴史」を参照
※この「七万言上書」の解説は、「パンチェン・ラマ10世」の解説の一部です。
「七万言上書」を含む「パンチェン・ラマ10世」の記事については、「パンチェン・ラマ10世」の概要を参照ください。
- 七万言上書のページへのリンク