バウンティの航海とは? わかりやすく解説

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バウンティの航海

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/21 07:28 UTC 版)

ウィリアム・ブライ」の記事における「バウンティの航海」の解説

バウンティ号の反乱」も参照 1787年に、ブライ王立芸術協会特別な要請により武装船「バウンティ」を指揮することになった。彼はまずタヒチ島赴いてパンノキ」を採取しその後カリブ海に向かうことになっていた。そこでは、「パンノキ」が奴隷のための食用果実として適しているかどうか実験することになっていた。しかしタヒチ出発した直後起きた反乱のため、「バウンティ」がカリブ海到着することはなかった。 タヒチへ航海は困難を極めた。「バウンティ」は荒天名高いホーン岬を回るのに1ヵ月費やした後、最終的にそれを断念し喜望峰経由長い道のりを辿らざるを得なかった。その遅れはタヒチ着いてからさらに大きな遅れを招いたパンノキ運搬できるほど十分に熟するまでにさらに5ヵ月待たなければならなかったのである。「バウンティ」は、1789年4月になってようやくタヒチ出帆した。 「バウンティ」はカッター同等の船とみなされていたため正規士官ブライのみであり、他はわずかな乗組員しかおらず、停泊中に敵対的な住民から艦を守ったり、艦内保安担当する海兵隊乗っていなかった。睡眠時間をより長く連続して取るために、ブライ乗組員を2直でなく3直に分け彼の代理として航海士上級准士官)のフレッチャー・クリスチャン据えて直のひとつをまかせた反乱は、帰路1789年4月28日クリスチャン率いられ第3直の乗組員によって起こされた。彼らはクリスチャン夜間当直のときに火器をもって蜂起すると、ブライ脅して船室閉じ込めた反乱者の方が少数であったにもかかわらず、他の乗組員らは誰も積極的な抵抗を示さなかった。ブライ捕縛され、船は流血なしで乗っ取られてしまった。反乱者たちは、ブライと、最後まで反乱与しなかった18名をわずか23フィート(7m)の長さしかない艦載艇乗せ最も近い港に行き着くまでの2、3分の食料、それに4本の斬込刀(カットラス)と六分儀懐中時計だけを与えて海に流した海図コンパス渡されなかった。艦載艇乾舷はほんの数インチだけであった艦載艇にはブライ忠実な乗員をすべて収容することができなかったので、反乱者たち有用な技術をもっている者4名をバウンティ艦内残した。彼らはタヒチ着いた後で解放された。 ブライらが捨てられ位置からはタヒチ風上であり、またそこは明らかに反逆者目的地であった(彼らは、「バウンティ」が離れていくとき、反乱者が「タヒチ歳!(Huzzah for Otaheite!)」と叫ぶのを聞いていた)。ヨーロッパ影響及んでいる範囲ではティモールが最も近かったブライらはまず、必需品確保するためにトフア島(Tofua)に向かったが、そこで彼らは敵対的な原住民から攻撃を受け、乗組員1名が殺された。彼らには身を守る武器がなく、また他の島でも襲撃されることが予測されたため、トフア島から逃げた後は近く島々フィジー諸島)に立ち寄る冒険を行うことはなかった。 ブライは自らの航海術キャプテン・クックの元で磨いており、絶対自信持っていた。彼の最優先義務は、生き延びて反逆者追跡できるイギリスの船に、できるだけ早く反乱知らせ伝えることだった。そして彼はティモールへの、一見不可能な3,618海里(6,701km)の航海完遂した。ブライ驚嘆すべき航海術によってこの47日間航海行い、トフアで殺害され1人のほかに犠牲者を出すことなくティモール到着した皮肉なことに、この試練生き残った男の何人かは、疫病蔓延するオランダ領東インドバタヴィア港でイギリスへ輸送待っている間に病気(おそらくマラリア)で命を落とした今日にいたるまで、反乱の原因議論対象となっている。ある者は、ブライ恐ろしい暴君であり、その虐待乗組員一部ブライから船を奪うしかない決意させたと考えている。また、原因乗組員のほうにあると考える者もいる。未熟で、海の厳しさ不慣れな者たちがタヒチの島で自由と性的な享楽味わった後、「ジャック・タール(Jack Tar)」と呼ばれる水兵厳しい生活に戻ることを拒否したというのである反乱者たち性格の弱いフレッチャー・クリスチャンによって「指導され」、ブライ厳し叱責から逃れるだけでも満足だった。この論者は、反乱者たちが船を奪ったのはタヒチでの快楽満ちた快適な生活に戻るためであった考えている。 「バウンティ」の航海日誌は、ブライ懲罰には控えめであったことを示している。他の艦長鞭打ち行ったであろうケースでは叱責処分とし、絞首刑処したであろうケースでは鞭打ち済ませていた。彼は教育受けた人間であり、科学に深い興味持っていた。そして、適切な節制衛生とが乗組員福祉のために必要であると確信していた。彼は乗組員運動大きな関心払い食物の質に注意しバウンティ清潔に保つことに腐心していた。この、一面では卓越した海軍士官欠点について、J・C・ビーグルホールはこう書いている。 (ブライは、)自分できることについては独断的な判断下した。彼は自分自身のことを知らなすぎた。うぬぼれは、彼の生涯通じて欠点だった。・・・(ブライは)自分侮辱している相手友人になってくれることはなということ気づいていなかった。 大衆小説はしばしブライ軍艦パンドラ」の艦長エドワード・エドワーズ混同するエドワーズ海軍の命を受けて反逆者を見つけ、軍法会議の場に引き出すために南太平洋にやってきた。エドワーズは、どの点から見ても(ブライがしばしばそう言って非難されるような)容赦ない冷酷なであった。彼が捕えた14名は後部甲板置かれ18フィート(5.5 m)×11フィート(3.4 m)×5フィート8インチ(1.7 m)の木製拘束され閉じこめられた。「パンドラ」がグレート・バリア・リーフ座礁したとき、囚人のうちの4名と乗組員31名が亡くなった沈みゆく船から放り出される前にパンドラ」の掌帆手ウィリアム・モルターがその鍵を開けなければ囚人全員死んでいただろう。 1790年10月ブライは「バウンティ喪失に関する軍法会議無罪となり、名誉を回復したその後まもなく、『軍艦バウンティ反乱物語(A Narrative of the Mutiny on board His Majesty's Ship Bounty)』が出版された。生き残った10人の囚人のうち4人は、反逆者でなく、単にブライらを乗せた搭載艇のスペース不足したために「バウンティ」に残ったのだというブライ証言によって無罪となった2人は、反乱加わってはいなかったものの消極的で反乱抵抗しなかったという理由有罪となったが、その後国王恩赦受けた1人有罪判決受けたが、特殊な事情執行免れた残りの3人は有罪となって絞首刑処せられた。

※この「バウンティの航海」の解説は、「ウィリアム・ブライ」の解説の一部です。
「バウンティの航海」を含む「ウィリアム・ブライ」の記事については、「ウィリアム・ブライ」の概要を参照ください。

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