ハワイ王国の崩壊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 15:05 UTC 版)
「ハワイ併合」も参照 1893年1月15日、サーストンらの呼びかけで前日(1月14日)結成された「公安委員会」を名乗る組織が、一般大衆に対し、「ホノルルライフルズ部隊本部にて市民集会を開く」旨の呼びかけを行った。これに対し王権派の閣僚は反逆罪の適用を検討したが、衝突を避けるよう主張するアメリカ系閣僚の声もあり、対抗する集会をイオラニ宮殿で行うことが決定された。目的はこの集会にてリリウオカラニによる「新憲法を公布しない」という声明を発表するものとし、これ以上の混乱を阻止しようというものであった。 翌1月16日、ホノルルライフルズで開始された集会でサーストンは女王を糾弾し、自由の獲得を市民に訴えた。この動きに呼応し、スティーブンスは米国軍艦ボストン艦長ギルバート・ウィルツへ「ホノルルの非常事態に鑑み、アメリカ人の生命および財産の安全確保のため海兵隊の上陸を要請する」と通達した。同日午後5時、将校を含む武装した海兵隊164名がホノルル港へ上陸した。 1月17日、ハワイ王国最高裁判所の判事であったサンフォード・ドールは、新政府樹立の準備のため判事を辞任した。同日午後2時、政府庁舎に公安委員会一同が集結すると、ヘンリー・E・クーパーにより、ハワイ王国の終結及び暫定政府の樹立が宣言された。駆けつけたホノルルライフルズらによって政府庁舎および公文書館が占拠され、戒厳令が布かれた。ドールは暫定政府代表として各国の外交使節団およびリリウオカラニに対し、暫定政府の樹立を通達した。リリウオカラニはスティーブンスに対し特使を派遣し、アメリカが暫定政府を承認しないよう求めたが、スティーブンスは「暫定政府は承認され、アメリカはハワイ王国の存在を認めない」と回答した。これを受け、リリウオカラニはドールに対し、 「 私、リリウオカラニは、神の御恩寵によって、また王国憲法のもとに、女王として、この王国に暫定政府の樹立を求める特定の人々が私およびハワイ王国立憲政府に対しておこなった反逆行為すべてに対して、ここに厳重に抗議します。……(中略)……軍隊の衝突と、おそらく生命の喪失となることを何としても回避せんがため、米国政府が事実を提示されたうえで、アメリカの外交使節のとった行動を取り消して、ハワイ諸島の立憲君主としての権威の座に私を復位させる時が来るまで、私はこの抗議をもって、私の権限を放棄いたします。紀元1893年1月17日 R・リリウオカラニ 」 との文書を送付した。暫定政府樹立宣言後、ドイツ、イタリア、ロシア、スペイン、スウェーデン、オランダ、デンマーク、ベルギー、メキシコ、ペルー、イギリス、日本、中国といった国々が暫定政府を事実上の政府として承認した。ハワイをアメリカの保護下に置くよう併合交渉を進めていた暫定政府に対し、2月1日、スティーブンスは米国公使としてその要求を承認し、ハワイ政府庁舎に星条旗が掲揚された。しかし、リリウオカラニの抵抗や、アメリカ国内における女王支持派、およびスティーブンスの取った強引な手法に対する世論の反発などで、すんなりと併合にこぎつけられずにいた。この事実を知ったグロバー・クリーブランド大統領は、スティーブンスの更迭を行い、アルバート・ウィリスを公使に任命した。ウィリスはクリーブランドの指示のもと、道徳的観点から暫定政府の取り消しとリリウオカラニの復位の道を模索した。 1893年11月4日、ウィリスはリリウオカラニが軟禁されているホノルルへ赴き、国家を転覆させた反逆者の処遇をどのように希望するかを確認した。リリウオカラニは「法律上は死刑であるが、恩赦を認め、国外追放に止めるべきである」との認識を示したが、後日の新聞紙面上には「女王が暫定政府の死刑を求める」との文字が躍った。この報道は捏造であり、その後訂正がなされたが、ウィリスは12月20日、ドールに対し、「リリウオカラニを正式なハワイの統治者であることを認め、現地位と権力の全てから退くこと」という、クリーブランドのメッセージを伝えた。 こうした状況からドールらは、クリーブランドの在任中の併合は不可能であると判断し、「過ちがあったのはアメリカ政府の機関であり、暫定政府とは無関係である。クリーブランド政権の要求は内政干渉に当たる」とした回答を12月23日に発表した。さらに、暫定政府を恒久的な政府として運営するため、ハワイ共和国と名を変え、1894年7月4日、憲法の発布と新しい国の誕生を宣言した。初代大統領はドールが継いだ。 1895年1月16日、王政復古を目指す先住ハワイ人たちが反乱を起こし、鎮圧に当たった政府軍に死亡者が出た。リリウオカラニはこの件に直接関与していなかったが、弾薬や銃器を隠し持っていたという理由で他の王族とともに反逆罪で逮捕され、イオラニ宮殿に幽閉された。1月22日、リリウオカラニは王位請求を諦め、ハワイ共和国への忠誠を誓い、一般市民として余生を送る旨の宣言書に署名、ハワイ王国は名実ともに滅亡した。
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