ハワイ王国の政策
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 04:19 UTC 版)
ハワイ王国は、1839年にイギリスのマグナ・カルタを基本とした「権利宣言」を公布、翌1840年10月8日にはハワイ王国憲法(英語版)を公布して立憲君主政を成立させた。 1840年の憲法制定後、諸外国とのあいだで独立承認交渉が進められ、1842年、アメリカのジョン・タイラー大統領がハワイ王国を独立国として承認した。しかし、ジェームス・クック以降の18世紀後半から交流の歴史があったイギリスの賛同が得られず、カウイケアオウリ(カメハメハ3世)がイギリス領事と交渉を行うが決裂した。この決裂を受けて、メキシコ沿岸の軍艦を統括していたイギリス海軍のジョージ・ポーレットが、軍艦を率いて1843年2月にホノルルに入り、威圧的な状況下でカメハメハ3世との会談を強行し、会談後にポーレットによる臨時政府が成立させた。この臨時政府によりハワイ政庁にはイギリスの国旗(ユニオンジャック)が揚げられたが、アメリカ政府による抗議と間接的な圧力に加えてフランス政府の動きから臨時政府は短命に終わり、同年7月にハワイ王国に主権が戻った。その後に宗教問題など英米仏からの干渉を解決し、ヴィクトリア女王のイギリス、ルイ・フィリップのフランス王国の承認を得る。 しかし、欧米文化の流入になじめない先住ハワイ人に対し、ハワイに帰化した欧米人はハワイ王国内での政治的発言力を強め、1844年にはハワイへの帰化を条件とした欧米系白人の政府要職への着任が認められた。1845年には基本法により行政府として国王、摂政、内務、財務、教育指導、法務、外務の各職を置き、15名の世襲議員と7名の代議員からなる立法議会が開かれた。1852年の新しいハワイ王国憲法(英語版)では、アメリカでリンカーンが奴隷解放宣言を発する以前の段階で奴隷禁止条項を盛りこむなど、進歩的な内容を含んでいた。 こうした欧米化は、従来のアフプアアを軸とした土地概念にもおよび、ハワイ社会でも土地私有の観念が広く受け入れられた。1848年制定の土地法により、ハワイの土地は王領地、官有地、族長領地に分割されたが、1850年にクレアナ法(英語版)が制定され、外国人の土地私有が認められるようになると、対外債務を抱えていたハワイ政府は土地売却によって外債を補填するようになり、1862年までの12年の間にハワイ諸島全体の約4分の3に達する面積の土地が外国人所有となって、先住ハワイ人の生活基盤が損なわれるようになった。 いっぽうアメリカ国内のジャーナリズムは、すでに1849年頃には、ハワイ諸島をアメリカに併合し、ハワイ州として連邦に加えるべきだと主張し始めており、1852年、この提案が議会に提出されて検討に付された。なお、この間カリフォルニアが1850年に州への昇格を果たしている。 カウイケアオウリの甥のアレクサンダー・リホリホ(カメハメハ4世)が王位に就いた1855年頃のハワイ王国政府には、アメリカ系、イギリス系、先住ハワイ人という3つの政治的グループが形成され、たがいに対立していた。アレクサンダー・リホリホは、前王が付与した一般成年男子の参政権が王権の失墜を招くのではないかと怖れ、兄のロト・カメハメハと協力して王権の強化と貴族主義的な君主政の確立を目指した。アレクサンダー・リホリホは、増大するアメリカ人実業家の勢力を制限してアメリカ世論におけるハワイ併合への動きを牽制するとともに、1860年、「ハワイアン改革カトリック教」という名の聖公会をハワイに設立し、英国よりトーマス・ステイリー(英語版)をはじめとするイングランド国教会の聖職者を招いた。これには、息子のアルバートを洗礼させ、ヴィクトリア女王を教母として立てることで列強諸国と対等の関係を築こうとした政治的意図があったといわれている。しかし、1862年にはアルバート王子が、翌1863年11月には王自身が死去して、この計画は頓挫した。王位は兄のロト・カメハメハが継承し、カメハメハ5世として即位した。
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