州への昇格
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20世紀になる前からアラスカを州に格上げしようとする動きはあったが、48州の連邦の議員たちが心配していたのはアラスカの人口が少なすぎること、遠く離れていて孤立していること、合衆国に加える価値があるほどには経済が安定していないことだった。第二次大戦と日本軍の侵略はアラスカの戦略的な重要性を浮き彫りにしたので、格上げ問題はより真剣に語られるようになった。しかしケナイ半島のスワンソン川での石油の発見がアラスカのイメージを変えた。1958年7月7日大統領ドワイト・D・アイゼンハワーはアラスカ州法に調印してこれを合衆国法に加え、1959年1月3日の連邦加入への道筋をつけた。準州都だったジュノーはそのまま州都になり、ウィリアム・A・エガンが最初の州知事になった。 アラスカは他の州と同じような郡 (county) がない。代わりにアラスカはアラスカ独自の郡 (borough) と国勢調査地域 (census area) から成る 27の地域に分けられている。郡 (borough) と国勢調査地域 (census area) の違いは、前者がそれぞれに独自の政庁を持つのに対して後者がアメリカ合衆国統計局が統計調査のためだけに人工的に区切った地域である、という点である。郡に組み込まれていない地域はアラスカ州政府が言うところの「未組織の郡 (unorganized borough)」を成していて、郡地域で行われている行政サービスを州政府自らが請け負っている。
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州への昇格
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1856年12月、ライスは2つの法案を議会に提出した。ミネソタが州憲法を作ることを認める権限付与法と、鉄道用地を付与される法であった。ライスの権限付与法はプレーリーと森林の両方を含む州を定義していた。州の境界は南はアイオワ州、東はウィスコンシン州、北はカナダであり、西は北のレッド川とボワ・ド・シュー川、トラバース湖、ビッグストーン湖とし、その線を南にアイオワ州境まで引いたものであった。ライスはミネソタの人口成長を元にこの案を作った。 当時、アメリカ合衆国の北部と南部の間で緊張感が強くなっており、一連の紛争が結局南北戦争に繋がった。合衆国議会の下院ではほとんど議論が無かったが、ダグラスが法案を上院に持ち込んだとき、議論の嵐となった。北部の者達は自由州の側に付く上院議員を2人増やすチャンスだとみなし、南部の者達は力が失われると確信した。多くの上院議員は人口がまだ希薄であり、州にするには早すぎると丁寧な議論をした。特にケンタッキー州選出の上院議員ジョン・バートン・トンプソンは、新しく州を作れば、道路、運河、砦および灯台などで政府に多くの費用を強いることになると主張した。トンプソンと他の21人の上院議員が州昇格に対して反対票を投じたが、1857年2月26日に権限付与法が成立した。 権限付与法が成立した後で、準州議会は州憲法を起草する困難な時代を過ごした。憲法制定会議は1857年7月に招集されたが、共和党と民主党で大きく2つに分裂していた。実際にそれぞれが独自の憲法制定会議を開き、異なる2つの憲法が起草された。結局は2つの集団が協議委員会を形成し、共通の憲法を書き上げた。しかし、分裂状態は続いた。例えば共和党員は民主党員が署名を終えた文書には署名を拒んだ、などであった。憲法の写し1部は白い紙に書かれて共和党員のみが署名した。一方もう1部は青味がかった紙に書かれ民主党員によって署名された。これらの写しは1857年8月29日に署名された。住民投票が1857年10月13日に行われ、住民は憲法を承認するかあるいは不承認かを投票した。30,055票が承認し、反対は571票だった。 州憲法は合衆国議会の批准を求めて1857年12月に送られた。承認手続は、議会がカンザス・ネブラスカ法から起こった問題を議論していたので数ヶ月間引き延ばされた。南部の者達は次の州が奴隷制を擁護する側であるべきと主張していたので、カンザス州が奴隷制を擁護するルコンプトン憲法(英語版)を提出したときに、ミネソタの州昇格法案は遅らされた。その後で、北部の者達はミネソタの民主党代議員がカンザス州における奴隷制を支持することを恐れた。最終的にカンザス問題が落着し、合衆国議会がミネソタの合衆国下院議員数を決めた後で、法案が通った。ヘンリー・M・ライスが定義した境界の中で、ミネソタ準州の東半分が1858年5月11日に合衆国第32番目の州となった。西半分は1861年3月2日にダコタ準州に組み入れられるまで組織の無い状態が続いた。
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