グリュックスブルク家の時代とは? わかりやすく解説

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グリュックスブルク家の時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/12 04:47 UTC 版)

ギリシャ王国」の記事における「グリュックスブルク家の時代」の解説

イギリス・フランス・ロシアは新たな国王デンマーク国王クリスチャン9世の次男クリスチャン・ヴィルヘルム・フェルディナント・アドルフ・ゲオルクを選出1863年ゲオルギオス1世としてギリシャ王即位した。彼は後継者正教徒にするという約束結んでおり、さらにイギリス1815年以降領有していたイオニア諸島返還受けた。新王即位とともに新憲法制定されオソン1世時代憲法よりも王権制限され普通選挙導入されたが、これはヨーロッパ中でも早いものであった。 しかし、ギリシャ政局中々安定せず1880年にトリクピス率い政党とディリヤンニス率い政党による二大政党制出現するまで安定することはなかった。トリクピスが政権につくと国内改革行い借款依存した経済の建て直し政治改善国内インフラ改良に力を注いだが、対外政策での強硬手段失敗続き列強への依存は深まるばかりであった一方、ディリヤンニスが首相であった時には第1回近代オリンピック1896年4月実現可能にしたことにより、ヨーロッパ諸国ギリシャ西欧の国であることを知らしめることに成功した。 しかし、ギリシャにおいて1870年ディレーシ事件発生独立戦争以来生き残っていた武装集団イギリスイタリア人らを殺害、これはヨーロッパ諸国ギリシャが「盗賊どもの住家」「半分野蛮な国」という印象を抱くには十分であり、オスマン帝国時代からヨーロッパ人々抱いていた古代ギリシャへのロマン終わりを告げることとなった。さらにギリシャ政府多大な賠償金支払いはしたが、この武装集団に対して有効な手段をとることができず、さらに評価下げることとなった。しかし、この武装集団ギリシャ非正規軍として今後ギリシャ領拡大活躍することとなる。 ギリシャ経済においては一部工業において機械化進みはしたがこれは工業化促進につながらず、農業においても1871年土地分配終了したことによる小作農増加し1881年テッサリア併合によって農産物増加見込まれはしたが、自国内で消費する分しか生産できなかった。、また、アメリカ大陸から農産物が安い価格輸入開始されるうになると、農産物価格下落し、さらに通貨ドラクマ下落することとなった。そのため、ギリシャ経済悪化するばかりで歳入不足が続いたため、歳入3分の1海外からの借款な上に軍事増強に5割を使用したため、国内経済基盤成長使用されることがなかった。このためギリシャでは移民促進されることとなったこの頃クレタ島依然としてオスマン帝国領土であったが、ギリシャへの統合求め蜂起発生しつつあった。特に1866年大規模な蜂起1869年まで続きオスマン帝国ギリシャ、そして列強三国まで巻き込む騒動にまで発展しギリシャクレタ島におけるキリスト教徒の迫害根拠列強国訴えたが、列強東方問題として混乱することを恐れ1869年ドイツビスマルクオーストリア含めた上でパリ会議開催現状維持採用された。しかし、クレタでは1878年再度蜂起発生、『ハレパ協定』により、クレタ住民権利拡大したが、1888年クレタ議会において急進派勢力拡大するオスマン帝国はこれに対して派兵急進派らは革命議会設立してギリシャへの統合主眼においた。1896年5月オスマン帝国軍によるキリスト教徒虐殺事件発生するギリシャもこれに対抗して艦隊派遣列強国クレタ自治化を提案したが、オスマン帝国拒否した。さらに翌年2月ゲオルギオス1世クレタ島占領決断したが、列強阻止されたが、ギリシャ北部国境において非正規軍が集結オスマン帝国ギリシャ一戦構えることとなったギリシャ軍はこれに敗北したが、クレタ島自治獲得することに成功、さらにゲオルギオス1世次男ゲオルギオス王子クレタ島総督として着任したが、1905年司法顧問であるエレフセリオス・ヴェニゼロス対立ヴェニゼロス総督の交代ギリシャへの併合主張して革命宣言行ったことにより、国際監視委員会が総督の交代キリスト教徒地位向上を約束したため、ヴェニゼロスはこれを受け入れた。 さらに北方国境以北でもスラブ系諸民族民族主義的観念から蜂起行っており、ギリシャ人テッサリアマケドニア蜂起おこなった1878年ベルリン会議により、セルビアルーマニア独立ブルガリア自治国化が決定されたが、マケドニアはこれらの国の係争地化しギリシャタカ派態度隠そうとしなかった。特にブルガリア民族主義急進化しており、総主教座利用して大ブルガリア再現狙っていたが、ギリシャもこれに対抗世界総主教座は民族分離傾向が進む中、ギリシャ支援始めていた。マケドニアでは散発的な戦い始まり列強国仲介試みたが、これも進まず結局1908年にはマケドニア戦闘発生バルカン戦争まで続いた1908年オスマン帝国青年トルコ人革命発生した。これによりオーストリアボスニア・ヘルツェゴヴィナ併合ブルガリア正式に独立、さらにクレタ島ギリシャへの併合宣言したがこれは列強により阻止された。これにより軍の一部クーデター起こし政府改革要求政府はこれを受け入れたその後、軍と議会対立急進化したためクレタ島からエレフセリオス・ヴェニゼロス事態打開のために呼び寄せられた。 ヴェニゼロスアテネ到着する打開策提示1910年8月8日選挙が行われヴェニゼロス派が勝利したが、さらに議会運営有利に行うために再度選挙を行うことが決定されたが、各政党はこれをボイコット、そのためヴェニゼロス率い自由党圧倒的多数占めることとなり、1911年5月20日憲法改正された。さらにヴェニゼロス社会改革経済復興に力を注ぎ、さらに親ドイツ派が多数占める軍幹部反対押し切ってイギリスフランスの支援受けて軍の近代化行いフランスから追加借款1億1000万フラン受けて経済復興にも成功した

※この「グリュックスブルク家の時代」の解説は、「ギリシャ王国」の解説の一部です。
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