グリュックスブルク家の時代
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「ギリシャ王国」の記事における「グリュックスブルク家の時代」の解説
イギリス・フランス・ロシアは新たな国王にデンマーク国王クリスチャン9世の次男クリスチャン・ヴィルヘルム・フェルディナント・アドルフ・ゲオルクを選出、1863年ゲオルギオス1世としてギリシャ王に即位した。彼は後継者を正教徒にするという約束を結んでおり、さらにイギリスが1815年以降、領有していたイオニア諸島の返還を受けた。新王即位とともに新憲法が制定され、オソン1世時代の憲法よりも王権が制限され、普通選挙が導入されたが、これはヨーロッパの中でも早いものであった。 しかし、ギリシャの政局は中々安定せず、1880年にトリクピス率いる政党とディリヤンニス率いる政党による二大政党制が出現するまで安定することはなかった。トリクピスが政権につくと国内の改革を行い、借款に依存した経済の建て直し、政治の改善、国内インフラの改良に力を注いだが、対外政策での強硬手段に失敗が続き、列強への依存は深まるばかりであった。一方、ディリヤンニスが首相であった時には第1回近代オリンピックが1896年4月の実現を可能にしたことにより、ヨーロッパ諸国にギリシャが西欧の国であることを知らしめることに成功した。 しかし、ギリシャにおいて1870年ディレーシ事件が発生、独立戦争以来生き残っていた武装集団がイギリス、イタリア人らを殺害、これはヨーロッパ諸国にギリシャが「盗賊どもの住家」「半分野蛮な国」という印象を抱くには十分であり、オスマン帝国時代からヨーロッパの人々が抱いていた古代ギリシャへのロマンが終わりを告げることとなった。さらにギリシャ政府は多大な賠償金を支払いはしたが、この武装集団に対して有効な手段をとることができず、さらに評価を下げることとなった。しかし、この武装集団はギリシャの非正規軍として今後、ギリシャ領土拡大に活躍することとなる。 ギリシャ経済においては一部工業において機械化が進みはしたがこれは工業化の促進につながらず、農業においても1871年に土地分配が終了したことによる小作農の増加し、1881年のテッサリア併合によって農産物の増加が見込まれはしたが、自国内で消費する分しか生産できなかった。、また、アメリカ大陸から農産物が安い価格で輸入が開始されるようになると、農産物の価格が下落し、さらに通貨ドラクマが下落することとなった。そのため、ギリシャ経済は悪化するばかりで歳入不足が続いたため、歳入の3分の1が海外からの借款な上に軍事増強に5割を使用したため、国内経済基盤の成長に使用されることがなかった。このため、ギリシャでは移民が促進されることとなった。 この頃、クレタ島は依然として、オスマン帝国の領土であったが、ギリシャへの統合を求める蜂起が発生しつつあった。特に1866年の大規模な蜂起は1869年まで続き、オスマン帝国、ギリシャ、そして列強三国まで巻き込む騒動にまで発展し、ギリシャはクレタ島におけるキリスト教徒の迫害を根拠に列強国に訴えたが、列強は東方問題として混乱することを恐れ、1869年、ドイツのビスマルクはオーストリアを含めた上でパリ会議を開催、現状維持が採用された。しかし、クレタでは1878年に再度、蜂起が発生、『ハレパ協定』により、クレタ住民の権利が拡大したが、1888年、クレタ議会において急進派が勢力を拡大するとオスマン帝国はこれに対して派兵、急進派らは革命議会を設立してギリシャへの統合を主眼においた。1896年5月、オスマン帝国軍によるキリスト教徒虐殺事件が発生するとギリシャもこれに対抗して艦隊を派遣、列強国もクレタの自治化を提案したが、オスマン帝国は拒否した。さらに翌年2月、ゲオルギオス1世はクレタ島の占領を決断したが、列強に阻止されたが、ギリシャ北部国境において非正規軍が集結、オスマン帝国とギリシャは一戦を構えることとなった。ギリシャ軍はこれに敗北したが、クレタ島の自治を獲得することに成功、さらにゲオルギオス1世の次男、ゲオルギオス王子がクレタ島総督として着任したが、1905年に司法顧問であるエレフセリオス・ヴェニゼロスと対立、ヴェニゼロスが総督の交代とギリシャへの併合を主張して革命宣言を行ったことにより、国際監視委員会が総督の交代とキリスト教徒の地位向上を約束したため、ヴェニゼロスはこれを受け入れた。 さらに北方国境以北でもスラブ系諸民族が民族主義的観念から蜂起を行っており、ギリシャ人もテッサリアやマケドニアで蜂起をおこなった。1878年、ベルリン会議により、セルビア、ルーマニアが独立、ブルガリアの自治国化が決定されたが、マケドニアはこれらの国の係争地と化しギリシャはタカ派的態度を隠そうとしなかった。特にブルガリアは民族主義が急進化しており、総主教座を利用して大ブルガリアの再現を狙っていたが、ギリシャもこれに対抗、世界総主教座は民族分離傾向が進む中、ギリシャの支援を始めていた。マケドニアでは散発的な戦いが始まり、列強国も仲介を試みたが、これも進まず、結局1908年にはマケドニアで戦闘が発生、バルカン戦争まで続いた。 1908年、オスマン帝国で青年トルコ人革命が発生した。これによりオーストリアはボスニア・ヘルツェゴヴィナを併合、ブルガリアも正式に独立、さらにクレタ島もギリシャへの併合を宣言したがこれは列強により阻止された。これにより軍の一部がクーデターを起こし政府の改革を要求、政府はこれを受け入れた。その後、軍と議会の対立が急進化したため、クレタ島からエレフセリオス・ヴェニゼロスが事態打開のために呼び寄せられた。 ヴェニゼロスはアテネに到着すると打開策を提示、1910年8月8日に選挙が行われヴェニゼロス派が勝利したが、さらに議会運営を有利に行うために再度の選挙を行うことが決定されたが、各政党はこれをボイコット、そのためヴェニゼロス率いる自由党が圧倒的多数を占めることとなり、1911年5月20日、憲法が改正された。さらにヴェニゼロスは社会改革と経済復興に力を注ぎ、さらに親ドイツ派が多数を占める軍幹部の反対を押し切って、イギリス、フランスの支援を受けて軍の近代化を行い、フランスから追加の借款1億1000万フランを受けて経済復興にも成功した。
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