キリスト教徒の迫害
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/27 03:58 UTC 版)
ディオクレティアヌス帝が統治した期間、キリスト教徒はおおむね平穏に生活できた。303年2月24日の布告によってキリスト教徒の迫害が始まったが、キリスト教徒の伝えるところでは、これはガレリウスの政策という。この迫害では、反政府的な秘密集会の恐れがあるとして、キリスト教の集会所が破壊された。 303年の布告以来、ガレリウスはキリスト教徒の迫害に固執した。しかし、311年4月、ニコメディアにて最後の病気が発しているときに、彼は自分とリキニウスとコンスタンティヌスの名の下に迫害を解除する布告を発した。キリスト教の教父ラクタンティウスは、迫害者の悪い末路を著した教化年代記『迫害者たちの死』(De Mortibus Persecutorum 34-35章)に、この布告の文言を記している。この布告によって、公式なキリスト教徒迫害は終わった。 ラクタンティウスによると、ガレリウスは自らのダキア人としての自覚を肯定し、また「彼はローマという名前を敵視すると公言した。彼は、帝国の名はローマではなくダキア帝国と呼ばれるべきだ、と述べた」。また、ガレリウスは最高位に昇るやいなや反ローマの態度をさらけ出し、2世紀前にトラヤヌス帝がダキアを征服してダキア人を冷遇したように、ガレリウスも征服者が被征服者を扱うかのようにローマ市民を手荒く冷酷に扱った、という。
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