キリスト教徒の再征服後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/24 01:25 UTC 版)
「アルクーディア」の記事における「キリスト教徒の再征服後」の解説
カタルーニャ地方のカンブリルスやタラゴナの港を出航した船は1229年9月5日にマリョルカ島に現れ、カタルーニャ艦隊は9月10日に上陸、12月31日にメディーナ・マユルカに入城した。キリスト教徒のアラゴン王ハイメ1世がムーア人を破ってマリョルカ島を征服すると、今日のアルクーディアを構成している社会政治的基盤、言語、法律、機関、慣習などがこの時期に形作られた。1232年のLlibre del Repartimentではカタルーニャ公と直接の家臣の間で行われた土地の分配について言及されており、現在のアルクーディア自治区はカタルーニャ王の領地となった。 ローマ教皇インノケンティウス5世による1248年の教皇勅書には、アルクーディア教区が初めて記録された。1282年にはアルクーディアの名前が初めて法的に記録された。1298年にはアラゴン王ハイメ2世がアルクーディア農場を購入し、同年には教会、墓地、聖職者のための家、広場を作り、新たな町の建設に取り組んだ。ハイメ2世の治世ではアルクーディアに「町」(Vila)の称号が与えられ、市街地の防衛を目的とした市壁の建設が開始された。 農業、漁業、市壁の建設、警戒を同時に行う必要があったため、市壁の建設はアルクーディア市民にとって大きな負担だったが、1298年に建設が始まり、1363年に市壁が完成した。1.5kmに渡って分布する約6mの高さを持つ26本の塔、今日まで生き延びている堀で構成されている。市壁はその歴史を通じて幾度も修復がなされており、1523年のジェルマニアの戦い後には新たな3基の稜堡が建設された。19世紀末には市壁が部分的に崩壊し、住民はこの建築物の保護を主張した。ポリェンティアのローマ都市の遺跡とともに、1974年には市壁が重要文化財(BIC)の中のConjunto Histórico Artísticoに指定されている。中世にはブドウ栽培とワイン生産が成長し、生産されたワインはバレアレス諸島外に輸出された。 ルネサンスの時代には14世紀の市壁が取り壊され、古い市壁の外側に第二の市壁が建設された。1523年にはアルクーディアに「市」の称号や他の権限が与えられた。16世紀から18世紀にはしばしば疫病に悩まされ、また16世紀には何度か海賊の攻撃を受けた。人口がますます減少し、町が完全に放棄される危険性が高まった時期もあった。 18世紀初頭のスペイン継承戦争後にフェリペ5世によって公布されたヌエバ・プランタ王令では、カタルーニャ地方やバレアレス諸島でカタルーニャ語の使用が禁じられた。1779年には自治体によって港の建設が決定された。これによってアルクーディアの経済状況が改善したが、小規模で貧しい町だったのは変わらなかった。19世紀には人口減少が顕著になり、1900年代まで回復することはなかった。
※この「キリスト教徒の再征服後」の解説は、「アルクーディア」の解説の一部です。
「キリスト教徒の再征服後」を含む「アルクーディア」の記事については、「アルクーディア」の概要を参照ください。
- キリスト教徒の再征服後のページへのリンク