キリスト教徒の言及
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 17:13 UTC 版)
「シビュラの託宣」の記事における「キリスト教徒の言及」の解説
ヨセフスと同じ箇所はキリスト教徒によっても引用されている。キリスト教の護教論者で176年頃にマルクス・アウレリウス帝に『キリスト教徒のための申立書』ラテン語: (Supplicatio pro Christianis) を献じたアテネのアテナゴラスは、古典的でかつ異教的な出典との混合を見せている第3巻の長大なくだりの中から、ヨセフスと同じ記述を引用している。そして彼はこれら全ての作品が、ローマ帝国でよく知られたものだと述べた。 アンティオケイアのテオフィロス (Theophilus of Antioch) はその著『アウトリュコスに送る』第2巻で4箇所引用しているが、うち3箇所は上述の通り「断片」を形成する章句である。残り1箇所は第3巻序盤の8行分と第8巻の5行目である。第8巻が唐突に1行だけ抜粋されている不自然な引用は、これが第3巻の一部だった可能性などを想定させる。なお、テオフィロスはユダヤ人にとっての預言者たちに対応する同格の存在として、ギリシア人にとってのシビュラを位置付けた。アレクサンドリアのクレメンスも、複数の著書において『シビュラの託宣』を引用し、異教徒たちにイエス・キリストの到来を預言した重要な存在と位置付けていた。 殉教者ユスティノスに帰せられてきた偽書『ギリシア人への勧め』(3世紀後半 - 4世紀初頭)の著者、偽ユスティノスも『シビュラの託宣』から複数箇所を引用した。彼はそれを全てクマエのシビュラ一人の神託と位置付けた。 アウグスティヌスも『シビュラの託宣』から引用し、特に『神の国』第18巻において、『シビュラの託宣』第8巻のアクロスティックを引用している。彼はそれを異教の巫女までもがイエスの到来を予言していた証拠として援用しており、これが中世ヨーロッパで広く知られる要因となった。後述するように『シビュラの託宣』がまとまった形(全8巻)で刊行されるのは1545年が最初だが、このアクロスティックだけはそれに先立つこと50年、アルドゥスによるギリシア詩歌の選集(1495年)の中にすでに採録されていたのである。ただし、アルドゥスの直接的な出典はエウセビオスに帰せられていて、そのエウセビオスの記述自体が実際には5世紀から7世紀ころに成立した『聖なる集団への勧告』という著書からの孫引きだった。 なお、アウグスティヌスは一貫して『シビュラの託宣』に好意的だったわけではなく、聖書を貶す目的でシビュラを称揚していたマニ教徒を論難する際には、『シビュラの託宣』をも攻撃した。 これに対し、『シビュラの託宣』に一貫して好意的な立場から、自身の教説の中で積極的に肯定的な地位を与え続けた人物がいる。それが、教父の中でもそれを最も多く引用し、そして後世のシビュラ理解に影響力があったとも言われるラクタンティウスである。彼はアウグスティヌスよりも前の時代の人物で、アウグスティヌスのシビュラ理解も彼から影響を受けたものであった。また、ラクタンティウスは上述の通り、現存の14巻本には含まれない断片も4つ伝えている。さらに彼の著書が15世紀後半に出版されたことで、後述するようにキリスト教美術におけるシビュラの受容にも影響した。 こうした言及によって、『シビュラの託宣』は中世の西方教会でも東方教会でも知られ、用いられてはいたものの、異教に対してキリスト教が優位になるのに伴って、それへの関心は段階的に衰え、広く読まれることはなくなっていった。『シビュラの託宣』は、その異教的要素にもかかわらず、聖書の外典や偽典と位置づけられることがある。しかし、どの教派でもこれが正典と位置付けられたことはなかった。 イタリアでルネサンスが花開いた頃には、まだ写本は再発見されていなかった。しかし、そんな中にあって人文主義者マルシリオ・フィチーノは『キリスト教について』で2つの章を割いて『シビュラの託宣』を論じている。彼の出典となったのは、ラクタンティウスの諸著作であった。
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