キリスト教批判
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「ブルーノ・バウアー」の記事における「キリスト教批判」の解説
1841年、バウアーは著作『無神論者・反キリスト教徒ヘーゲルに対する最後の審判ラッパ』で神への信仰は普遍的自己意識の獲得を阻害するとして批判し、また神聖同盟下のドイツにおける教会と国家の結合を批判した。しかし、プロイセン王国政府の検閲によってバウアーは1842年春にボン大学講師職を剥奪された。 無神論的な立場を表明したバウアーは、ベルリンのヘーゲル左派らで構成されたグループ「フライエン」の代表的な人物となり、フォイエルバッハやシュティルナーなどと当時の国家・政治・宗教について語り合った。 同1842年には「共観福音史家とヨハネの福音史批判」を発表。この頃からヘーゲル右派から決別、ヘーゲル左派へと立場を変える。この書の内容は、同じヘーゲル左派ダーウィト・シュトラウス「イエスの生涯」(1835年)の福音書を「神話」であるとする立場をさらに進め、キリスト教の福音書の内容を共観福音史家(つまりマタイ・マルコ・ルカ)による自己意識(あるいはヘーゲルでいう「主体的精神」)による「創作」であるとした。つまり、バウアーはシュトラウスの立場より、キリスト教をさらに人間主体の産物であると主張した。 1843年の『暴かれたキリスト教』でバウアーは、神への拝跪による思考喪失を批判して、キリスト教からの人間の解放を主張し、発禁処分となった。同年、社会主義者で無神論者のヴィルヘルム・マルが『暴かれたキリスト教』の縮約版を刊行した。後年マルは反ユダヤ主義を意味する「反セム主義(Antisemitismus)」を造語した。 ローマ教会を批判してドイツ・カトリック運動を起こしたシレジアの司祭ヨハネス・ロンゲ(Johannes Ronge)をドイツ市民は理性を救う者として歓迎したが、バウアーは理性は自由な聖書解釈を行うとしてドイツ・カトリック運動を批判した。 またバウアーはプロテスタントの自由ゲマインデ運動についても、領邦教会制度を批判せずに「愛と真理」といった空言を繰り返すだけで、ドイツ・カトリック運動と同じく聖書の自由研究を許していないと批判した。 バウアーは1850年代にも福音書や使徒行伝、パウロ書簡などを批判する本を出版した
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キリスト教批判
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「ハインリヒ・グレーツ」の記事における「キリスト教批判」の解説
グレーツは大著『ユダヤ人の歴史』でキリスト教を明確に敵視し、ユダヤ人のキリスト教への改宗者を「裏切り者」として厳しく批判した。グレーツはシオニズムに近いユダヤ民族主義の立場にあり、新約聖書をタルムードを使って読み直し、ユダヤ教とキリスト教の亀裂を拡大した。 グレーツはイエスを神の子とするキリスト教は、メシア意識の混乱にあるとして、イエスは神の子だと主張したために告発されたのであり、イエス処刑後の福音書は、メシアの出現物語を後知恵で証明しようとしたものにすぎないと論じた。 「神の子」という観念は異教の土地ギリシャのものであり、ヘレニズムの不純物であるとするグレーツの考え方は、マックス・ヴェーバーや、ヴェーバーの伯父で教会史学者のアードルフ・ハウスラートも認めた考えであった。 タルムードでは、イエスはヨセフ・パンデラと処女ミリアムとの不倫の子であり、ユダヤ共同体から追われて、神の名を用いて奇跡の力を学んだが、ラビ団のユダに打ち負かされて死刑となったというイエス物語があるが、グレーツはタルムードのイエス物語を作り話として、イエスはエッセネ派であるとした。 ハインリヒ・フォン・トライチュケはグレーツが『ユダヤ人の歴史』でキリスト教を「宿敵」「不倶戴天の敵」と表したことを取り上げて、これはキリスト教に対する狂信的な怒りであり、ゲルマン人への憎悪であるとして、グレーツを名指しで批判した。
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