オーストロファシズム
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ファシズム |
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オーストロファシズム(ドイツ語: Austrofaschismus)とは、1934年に始まり、1938年にナチス・ドイツに併合されるまで続いたオーストリアでのファシズム運動である。
概要
イタリア王国のベニート・ムッソリーニをモデルとした独裁体制が特徴として挙げられる。首相エンゲルベルト・ドルフースは1934年に暗殺されたが、1938年まで軍事政権が続いた。ドイツに併合されるまで、オーストリアでは反ユダヤ主義は滅多に見掛けられなかった。1929年のウォール街での大暴落に対する対抗処置として、市場経済に対しても国家統制を強めた。オーストロファシズムに於いて、カトリック教会は大きな役割を果たし、国教として認定された。その理由として、プロテスタンティズムに迎合する訳には行かないとか、共産主義よりマシだったという認識が共有されていた事が挙げられる。この点に於いて、オーストロファシズムはナチス・ドイツと利害が対立していた。文化についてもオーストロファシズムはフランス革命前のバロック芸術を賞賛し、近代芸術を「文化ボルシェヴィズム」だと罵倒した。ドルフースが党首を務めていたキリスト教社会党は現在でもオーストリア国民党として存続している。
関連項目
オーストロ・ファシズム
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 17:46 UTC 版)
「第一共和国 (オーストリア)」の記事における「オーストロ・ファシズム」の解説
ドルフス首相の下で確立されたこの独裁体制は、オーストロファシズムと呼ばれている。ここでは「職業共同体」と呼ばれる7つの職能代表からなる各評議会組織が、議会に代わって政府に対する補助機関として組織されるコーポラティズム体制が採用された。また、カトリック教会が国教と規定され精神的支柱となったことから宗教的な共通点の多いイタリアのベニート・ムッソリーニ政権と親密な関係を有していた。しかしこのことは、あくまで独墺合邦を追求するナチ党およびその意を体したオーストリア・ナチ党員との対立を呼び起こすこととなり、体制樹立後間もない7月25日、ドルフスはクーデタを試みたオーストリア・ナチ党員に射殺された。クーデタ自体は阻止され、後任の首相にはクルト・シュシュニック教育相が就任した。クーデターの失敗後、ヒトラー政権は副首相フランツ・フォン・パーペンを大使として派遣し、両国関係の沈静化を図ったが、ホスバッハ覚書にあるように、オーストリア併合をあきらめてはいなかった。
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