アーサー・マレーの生涯
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「アーサー・マレー」の記事における「アーサー・マレーの生涯」の解説
アーサー・マレーは1895年にオーストリア・ハンガリー帝国のガリツィアでモーセ・タイクマンとして生まれる。彼は1897年8月に母親サラとともにアメリカに移住し、エリス島に上陸した。父のアブラハム・タイクマンと共にマンハッタンのローワー・イースト・サイドのラドロー通りに住むようになった。 マレーは子供のころ恥ずかしがり屋で、背が高くてひょろっとした外見を気にしていた。彼は友達のほとんどが楽しんでいる社交活動、特にダンスに参加したいと強く思っていたが、女の子と付き合うのは怖かった。14歳の時、女の子に人気があって彼が尊敬していた友人、ジョー・フェイゲンバウムが彼に最初のダンスステップを教えた。 1912年、彼が17歳のときに、昼間は製図者として働きながら、夜間にダンスを教え始めた。また、有名なアイリーンとヴァーノン・カッスル夫妻の有名なダンスチームでカッスルウォークとタンゴを勉強し、すぐに教師に成り、彼らのもとでバニーハグ、グリズリーベア、ワンステップなどの新しく大流行していたダンスを教えた。(カッスル夫妻はフォックストロットを洗練させ、普及させた人物である。) 高校卒業後にマレーは、グランド・セントラル・パレスでの初のダンスコンテストで優勝した。一等賞は銀杯だったが、マレーは持ち帰れなかった。彼のパートナーは、それを取ってしまった。銀杯は質屋に持っていかれてしまった。この損失はマレーに強い印象を与えた。 ダンスインストラクターの仕事とは別に、マレーはブルックリン海軍工廠で製図工として、またニューヘイブン・レジスターで記者として働いた。 カッスル夫妻のもとで会ったカトルストン男爵夫人は、ノースカロライナ州アッシュビルの裕福な地区に秋から冬の間は移住して、ダンスの家庭教師にするように彼を説得した。マレーは19歳の1914年11月28日、バッテリーパークホテルに到着し、マサチューセッツ州ボストンのデヴェロー邸で教え始めた。同年、第一次世界大戦が勃発すると、米国で反ドイツ運動が盛り上がり、"タイクマン"はドイツ風の名前であったため、「アーサー・マレー」と改名するようにカトルストン男爵夫人から勧められた。 アシュヴィル・シチズンは1920年にマレーがバッテリー・パークで六回の夏を過ごしたと報告した。その頃、彼はダンススタジオのチェーンを始め、高給のダンス作家になった。また、イギリスで最も古いレコード会社の一つであるコロンビアグラモフォン社(後のEMI社)でダンスを教えるためのレコードを製作する契約にも署名した。 その後、1919年に、マレーは、ジョージア工科大学で経営学を学び始め、アトランタのジョージアン・テラス・ホテルで暇な時間に社交ダンスを教えた。フォーブスは「この学生は、年間15,000ドルを稼ぐ」と特集を書いた。1920年に、マレーは世界初の「ラジオダンス」を組織化した。ジョージア工科大学キャンパスのバンドが"Ramblin' Wreck"などの歌を演奏し、アトランタのダウンタウンのキャピタル・シティー・クラブの屋根の上のおよそ150人のダンサー(ほとんど工学部の学生)のグループに向けて放送された。 マレーは、友人のウィリアム・ジェニングス・ブライアンがある晩、ホテルで「...どうやって集金したらいいか、いい考えがあるんだ。彼らに左足で教えるだけで、お金を払うまで、右足で何をしたらいいか教えてはいけない!」と気軽に言ったことからヒントを得た。マレーはブライアンの言葉を思い出し、郵便配達で、足跡図を使ってダンスのステップを教えるというアイデアを思いついた。「アーサーマレーメールオーダースクールダンス Arthur Murray Mail-Order School of Dance」は数年の間に、50万以上販売された。 1925年4月24日、マレーはのキャサリン・コーンフェルダーと結婚した。彼がダンスのレッスンを放送している時、彼女は聴衆の一人だった。 結婚後、通信販売は衰退し、マレー夫妻は個人指導のダンススクールを開いた。 特に1938年と1939年に、当時まであまり知られていない「ランベス・ウォーク」(ミュージカル「Me and My Girl (1937)」の有名な歌で使われている。イギリスのロンドンの地名)とスウィングダンスの一つである「ビッグアップル」という二種類のダンスを彼が発表して大流行になった時、彼のビジネスもまた繁栄した。ダンスは全国のホテルチェーンで教えられ、「アーサー・マレー」という名前が世間に浸透した。 アーサー・マレーはダンスの歴史上最も成功したダンスインストラクターになり、その様子は「アーサー・マレー帝国」とまで呼ばれるようになった。 私生活においては、アーサーとキャサリン・マレー夫妻にはジェーンとフィリスという双子の娘がいた。1951年6月4日にジェーンはハイムリック法を考案した医師のヘンリー・ハイムリックと結婚した。フィリスは教育者のエドワード・アーバイン「テッド」・マクドウェルと結婚した。 1950年代に、マレーは関連市場がどこでダンススタジオを強化し、収入を多様化するかを見極め、自分の名前を冠した二つのプロジェクトを立ち上げ、新しい市場を開拓した。一つはテレビ、二つ目はレコード業界だった。 マレーは妻のキャサリンが司会を務めるバラエティ番組形式のダンスプログラム「アーサー・マレー パーティー」をTVで放送した。この番組は、1950年から1960年にかけて、CBS、NBC、DuMont(デュモント)、ABC、そして再びCBSにて放送された。それぞれのショーの最後には、ヨハン・シュトラウスの音楽へのワルツが含まれていた。この非常に人気のある番組は、アメリカ全土のテレビで12年間続いた。 マレーは大手レコード会社と契約して、ダンス音楽のセットを発売し、各レコードには無料のダンスレッスンのクーポン券をつけた。キャピトル・レコードからはシリーズ「Arthur Murray Favorites アーサー・マレーのお気に入り」として、当初は10インチEPレコード盤で、後に12インチLPとして発売した。レ・バクスターとオーケストラは、タンゴ(1951)とワルツ(1955)のアルバムを録音した。トランペット奏者ビリー・メイは、マンボとフォックストロットのレコードのバンドリーダーとしてデビューし、彼がラテン音楽を演奏した時にビリー・メイのリコ・マンボオーケストラという名前で、マレーのいくつかのレコードを指揮した。レイ・アンソニー・オーケストラはスウィングとフォックストロットのアルバム、ラテンアメリカのバンドリーダーのチュイ・レイエ(Chuy Reyes)とエンリック・マドリゲラ(Enric Madriguera)は、それぞれルンバとサンバのアルバムで演奏した。RCAビクターは、ツイストのような新しいダンスの人気に乗じ、1960年初めにマレーともう一つのダンスシリーズ「Music for Dancing ダンスのための音楽」で協力した。このレコードは、主にアーサー・マレーオーケストラとアーサー・マレーTVダンスオーケストラで構成されていたが、RCAの専属編曲家(ジョニー・カマチョ、ビル・ステグマイヤー、レイ・カーター)が主導した。これらのレコーディングの一部は、ソニーによってイージーリスニングのCDとして再発行された。 マレーは1964年に引退したが、1970年代後半のダンス フィーバーディスコ ショーにゲストとして出演するなど、時々活動を続けた。 長い間、マレーはホノルルとニューヨークのライに2つの家を持っていた。ホノルルの自宅で死去、享年95。娘のフィリスによると、肺炎が死因だった。死ぬ少し前まで元気で健康だった。
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