『徐霞客遊記』
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霞客は生涯旅行記を綴った。これが後世の人によってまとめられたものが『徐霞客遊記(游記)』である。 旅先で綴った日記を帰郷後に編集したとされる17篇の「名山日記」と逝去後に成立した「西南遊日記」をまとめたものが、親族とみられる徐鎮によって清の乾隆41年(1776年)にはじめて刊行された『徐霞客遊記』(乾隆刊本)である。これ以降、この乾隆刊本の翻刻がなされるが、20世紀に丁文江が校勘を加え、中華民国17年(1928年)に改めて『徐霞客遊記』を刊行、これが端緒となり1940年代に学術的な研究が広がった。1980年には、上海古籍出版社から徐霞客が訪れた名勝の写真や絵図などを含む校注本が刊行されている。 明末の動乱の中で霞客の日記の大部分は散逸し、現在伝わっている抄本は全体の3分の1程度と言われているが、なおも60万余字に及ぶ大部である。その足跡は、現在の江蘇・山東・河北・山西・陝西・河南・浙江・安徽・福建・広東・江西・湖北・湖南・広西・貴州・雲南の16省に及んでいる。 日記には、景勝は言うに及ばず、洞窟をはじめ、奇岩怪石や動物・草木といった自然の風物の記述、史実や人物の論評、危険に遭遇した経験、さらに物価の高低や飲食のような日常的ことまで様々描かれている。中でももっとも特徴的なのは地形の記述であり、山の高低、河川の大小、距離や方向を事細かに書き記している。日記はその日のうちに記すこともあれば、数日間をまとめて書くこともしばしばあったが、情報の詳しさからして、その場その場でメモを取っていたものと考えられる。 『遊記』の記述はきわめて詳細かつ合理的で、雲貴地方に多く見られる石灰岩地帯の円窪地・落水洞・地下水・侵食や沖積作用、岩石の特徴や火山現象、変化に富む植生の記述などは科学的に高く評価されている。イギリスの中国科学史家のジョゼフ・ニーダムはこれを称えて、「彼の旅行記は17世紀の学者の書いたものでなく、20世紀の野外観察家が書いた考察記録のようである」と述べている。とりわけカルスト地形と鍾乳洞の記述については、西洋で初めてこれらを体系的・科学的に記録したアタナシウス・キルヒャーやヴァルヴァソル(英語版)のそれに数十年先んじており、世界的な洞穴学の祖と見なすことができる。その鍾乳石の形成要因などに関する見解の多くは現代科学の原理に符合する。 彼はまた水脈の起源、なかんずく長江の源流の探索にも力を入れており、日記に付属する数篇の散文のなかに論考「溯江紀源」を著している。黄河は長江に比べて水量が少ないにもかかわらず、過去の多くの地理書が長江の水源を近くに、黄河の水源を遠くに置いていることに疑問を覚えた彼は、「岷山 江を導く」という『書経』禹貢以来の謬説を正して、その水源が金沙江にあることを突き止めた。 唐錫仁ら主編の『中国科学技術史 地学巻』(2000年)では、『本草綱目』の李時珍、『楽律全書』の朱載堉、『幾何原本』『農政全書』の徐光啓、『天工開物』の宋応星とならべて徐霞客を「当時の五大科学家」と評する。霞客が生きた時代は、西洋からキリスト教宣教師を通じて中国に自然科学が伝来した時期に当たり、彼自身も利瑪竇の『坤輿万国全図』や艾儒略の『職方外紀(英語版)』などに影響を受けた可能性がある。彼の日記はまた、宣教師の衛匡国が『中国新図志』を編纂する際の史料にもなった。 徐霞客は士林に名を成さなかったため、1641年に逝去したのちしばらくは、彼の日記は江南文人の間でのみ読み継がれていた。清初の文壇の領袖だった銭謙益は、彼の伝を記したが、その日記を見ることはできなかった。霞客の死から135年が経った1776年(乾隆41年)、子孫の徐鎮がこれを刊行し、1808年(嘉慶13年)には江陰の蔵書の名門、葉廷甲が復刊した。徐霞客の旅行記の保存と伝播においては、江陰の郷党ネットワークが重要な役割を果たした。 徐鎮の刊行本は「乾隆本」、乾隆本の校訂にもとづく葉氏の復刊は「葉廷甲本」の名で知られる。1928年、丁文江が葉廷甲本に注点を施したうえで、年譜「晴山堂帖」と路線図36図を加えて刊行し、以降依拠すべきテクストとされた。しかしのちに初期の抄本である「季会明本」と「徐建極本」が発見され、葉廷甲本と相補可能な点のあることが分かり、これらが1980年に褚紹唐・呉応寿の手によって整理・復刊され、今日まで底本となっている。
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