地理学者としての再発見
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/07 14:48 UTC 版)
梁啓超は1923年に『中国三百年学術史』で、徐霞客の著書の半分は風景の描写、もう半分は西南地方の山や川の脈絡を専門的に研究しており、その考証は極めて詳細で、中国における実地調査に基づく地理書の嚆矢と言うべきである、と指摘した。ただし彼の徐霞客の地理的解釈は、彼の老友であり地質学者の丁文江の影響を受けていた。 中国の地質学の創始者の一人である丁文江は、グラスゴー大学に学んだのち、1911年におこなった雲南での地質調査の際に先輩の学者から『徐霞客遊記』を勧められて読んだ。1914年に『遊記』を携えて再度1年近く雲南に入り、その記述の精緻さに驚いた文江は、自らの調査によって徐霞客の記録を検証し、『遊記』を研究し整理するために地質学の新たな知識を用いることにした。1926年に記した『徐霞客遊記』は、霞客の遊歴の目的・道程・紀行文の文学的価値などについて全面的に検討し、『遊記』の科学的価値を明らかにした。彼は霞客の地理学における精神と価値を説き、明代の偉大な旅行家を一地理学者に仕立て上げたのであった。 丁は科学主義に基づいて『遊記』を4点にまとめた。第一に詳細かつ正確な観察、第二に名詞への細心の注意、第三に明確な筋道、第四に真実を重んじたことである。しかし、徐霞客像を築く過程で、民族主義にとらわれていた彼は科学的精神を徹底して実践したわけではなかった。まず、徐霞客の功績を誇張した疑いがあり、彼が述べるところの「徐霞客の5大発見」のうち、4つについては全く言及しなかった。また、徐霞客は旅程を定めるのに時に卜占に頼っていたが、丁はこうした非科学的な色彩を極力薄めようとした。 徐霞客の事例は前近代の中国が科学的な地理学を持つことを証明しただけでなく、中国における近代地理学の内在的な正統性を証明した。徐霞客像の構築を通じて、丁文江は地理学を中国の伝統的な学問から引きはがし、科学主義を注入し、西洋の地理学を伝統の地理学の上に重ね上げて、中国地理学の模範を作り上げた。彼が徐霞客を発見したとき、中国の近代地理学はまだ確立の準備段階にあり、その構築には丁の手を必要としていた。 1934年に中国地理学会が成立すると、中国の地理学は急速に発展した。地理学の制度化と職業化のなかで学者らは徐霞客の再興を受け継ぎ、竺可楨の主宰する浙江大学史地学科が2つの側面から徐霞客を検討した。第一に、科学的な地理学の精神であり、霞客の使命や目的のない純然たる地理への求知心に、近代科学の精神を見出した。第二に、近代地理学の枠組みに基づく霞客の『遊記』の文章の分析であり、同時に彼の年譜や故郷などに関して考証と補完を行った。かくして、浙江大学史地学科によって地理学者としての徐霞客像は完成され、徐霞客研究は浙江大学の伝統となり、1950年以降その解釈を主導した。 丁文江は地質学者であり、竺可楨は気候学者であったことから、徐霞客に対する評価もまた自然科学的色彩を帯びることになった。これは、中国の地理学が近代化の過程で自然地理学に著しく傾き、人文地理学を軽視したことをも示している。 文学史上における『遊記』の価値については、鄭江旭が次のようにまとめている。第一に、孜々として飽くなき探検家のイメージを作り上げたこと、第二に、先の文人に類を見ない奇特かつ豊富な景観描写を行ったこと、第三に、いわゆる「蛮荒地区」(辺境未開の地)の少数民族の民俗や風情に注意を払い、描写したことである。同時に、明代から民国時代に至るまで、雲南辺境の地理や江南の郷土観が一貫して徐霞客の伝播と徐霞客像形成の影響下にあり、重大な作用を被ってきたことは注目に値する。
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