「天職」を求めて
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1921年(大正10年)10月、賀川豊彦のキリスト教社会運動にうちこむ大宅壮一の態度に脅威を感じた基次郎は、〈天職といふものにぶつからない寂しさが堪らない〉と自身を嘆き、〈自分は大宅の様な男を見るとあせるのである〉と綴った。ある夜、中谷孝雄と津守萬夫と一緒に琵琶湖疎水にボートを浮べ、水際の路に上がって月見をしていると、ボートが下流に押し流され、基次郎は津守と一緒に水中に飛び込み食い止めた。その勢いで2人は競泳を始め、冷えた身体を街の酒場で温めた。 この時に泥酔した基次郎は、八坂神社前の電車道で大の字に寝て、「俺に童貞を捨てさせろ」と大声で叫んだため、中谷孝雄と津守萬夫は基次郎を遊廓に連れて行った。女が来ると基次郎はげろを吐いて女を困らせたが(いくらか故意にやっていたようだったという)、やがておとなしく部屋に入っていった。 支払いのためにウォルサムの銀時計を質に入れた基次郎は、「純粋なものが分らなくなった」「堕落した」と中谷に言った。それまで基次郎は中谷と平林英子の仲を2人の言う通り、ただの友人関係(従妹)と信じていたほど純真なところがあったという。 次第に基次郎の生活は荒れ、享楽的な日々を送るようになっていくが、中出丑三と議論し、今は天職が見出せなくても、〈土台〉を築けばいいという思いに至った。 昨日は酒をのんだ、そしてソドムの徒となつた。あの寝る時の浅ましい姿。(中略)天職を見出でない男の悲哀は何に由つて希望を見出してゆくことが出来るか。決して空ではない希望。それを土台としてあの壮大な人間建築を建てるための必要なグルンド。自分は頭がよかつた。それこそは必然を導く哲学考察。これこそは最も根本的な最も必然な仕事だ、大宅は社会主義を奉じる、彼の哲学は彼の天職の空であつたことを告げるかも知れない。然し自分は土台を築く。 — 梶井基次郎「日記 草稿――第二帖」(大正10年10月17日) 11月、上京区北白川西町(現・左京区)の澤田三五郎方の下宿に移った。家賃が払えず下宿から逃亡することがしばしばだった。この頃、北野中学時代の友人で神戸にいる畠田敏夫が遊びに来た際に、他の友人らも交えて清滝の「桝屋(ますや)」に行った。酔っぱらった基次郎は、愛宕参りの兵庫県の団体客の部屋に裸で乱入して喧嘩となり、撲られ学帽を取られた(その後、店の主人・森田清次が取り返して戻った)。 この頃、「江戸カフェー」で、例の同志社大学の猛者・渡辺をうまく追っ払った文丙の北川冬彦(本名・田畔忠彦)を見て、基次郎は感激した。北川は柔道をやっていて、その場では文学談義にはならなかった。12月には、北野中学からの仲間への虚栄心から哲学書などを読んでいたことを基次郎は矢野繁や畠田敏夫に告白した。 いやしいものだ、君はこんなことを聞いてあきれるだらう、これが町人の気質といふものだ、町人の嫌ひな俺は又町人だ、こんなことを打ち明けるのに組織的にうまくかけるはずはない、済まないが判読して呉れ、投函の気持を失はざらん為読返しもしないから、(中略)これを打ち明けるのも虚栄心より発してゐるかも知れぬ あらゆる行為に虚栄心といふものを懸念してかからねばならぬとは悲しいことではないか、 — 梶井基次郎「畠田敏夫宛ての書簡」(大正10年12月1日付) 1922年(大正11年)2月、基次郎は短歌20首を作って畠田敏夫に送った。また、〈創作に於る主観と表現〉の関係を模索し、〈主観の深さと表現の美しさ〉について考察したりした。3月、学期末試験の後、中谷孝雄と和歌山県に旅行した。追試を受けた基次郎は特別及第となり4月に3年に進級したが、中谷孝雄は落第した。 他の北野中学出身の理科の友人や、同年入学の文科の飯島正、浅野晃、大宅壮一、北川冬彦たちは全員卒業し、東京帝国大学へ進んでいった。基次郎と中谷は、三高の中で無頼の年長者として知られるようになっていく。 この頃、三高学内では金子銓太郎校長への反発から生徒間で校長の排斥運動が高まり、基次郎も「先輩大会」に参加。この運動には文甲の外村茂(のちの外村繁)や桑原武夫が活動していた。しかしその運動に深入りしなかった基次郎は〈詩のシンフォニー〉を目指し詩作を始めた。 絵画や音楽、舞台芸術の関心もさらに高まり、大阪の大丸百貨店での現代フランス美術展に行き、京都南座で上演された倉田百三作の『出家とその弟子』を観劇した。4月29日に三高に来校した英国皇太子(ウインザー公)が観戦する神戸外国人チームと三高のラグビー試合を基次郎も昂奮して楽しんだ。この頃、三条麩屋町西入ルにあった丸善書店で長い時間を過ごし、セザンヌ、アングル、ダビンチなどの西洋近代絵画の画集を立ち読みするのが基次郎の楽しみでもあった。
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