「のぞみ301号」の設定とそれをめぐる騒動
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「名古屋飛ばし」の記事における「「のぞみ301号」の設定とそれをめぐる騒動」の解説
「名古屋飛ばし」が大きな話題となった端緒は、1992年(平成4年)3月14日に東海道新幹線で運転を開始した「のぞみ」の1日2往復のうち、下りの一番列車(「のぞみ301号」)で新横浜駅に停車して名古屋駅と京都駅を通過するダイヤが組まれることが、1991年(平成3年)11月に報じられたことである。 ただし京都駅の場合は、かつて東海道新幹線の建設計画時点で京都駅自体を経由しない案に対する一悶着(鉄道と政治#京都駅を参照)と比較すると、将来的に全ての「のぞみ」が通過することへの不安は覗かせたものの、京都観光への影響が殆ど無い早朝の1本のみということで、実際には京都府及び京都市周辺の官民双方から、反発の声や抗議の動きは殆ど見られなかった。新横浜駅を停車駅とした理由は、同駅周辺の乗客が早朝帯に東京駅方面へ出るのが難しかったためである。 「のぞみ301号」は、東京都区内・横浜市周辺のビジネス・出張利用客が早朝に出発して、大阪市内近辺のオフィスへの出社時刻に間に合うように設定された。しかし、当時は夜間の保線工事の後、地盤を固めるために、早朝の数本の列車については減速運転をしなければならない事情を抱えていたうえ、新大阪駅から大阪中心部までは距離がある。 そのため、「のぞみ301号」を新横浜・名古屋・京都の各駅に停車させると、登場当時の「のぞみ」の売り文句であった「東京 - 新大阪間2時間半運転」が不可能となり、朝の会議に間に合わなくなる恐れがあるため、苦肉の策として名古屋・京都両駅を通過させることで対応しようとしたのである。新大阪着8:30であれば「9:00の会議に間に合う」とアピールできるが、「名古屋着7:40」では、逆に早すぎてビジネスマンへのPR材料にはあまりならない。 また当時の「のぞみ」は、東京 - 新大阪間のみの運転であり、名古屋駅から山陽新幹線沿線(岡山・広島・博多方面)へ向かう利用者にとっても、スピードアップのメリットはあまり無かった。従って「のぞみ301号」が名古屋駅を通過しても、当時の状況では利用者にさほど不便を強いるものではなかった。逆に、同時に設定された他の「のぞみ」は、当時の最速「ひかり」と同じく名古屋・京都両駅に停車して新横浜駅は通過であった。 ダイヤ検討の会議で、営業本部の提案したこの名古屋、京都両駅通過案と「早朝に名古屋発で西に向かう『ひかり』がある。利用客に実害はない」と、合理性を強調する意見に対し、JR東海社長(当時)の須田寬は「地元の反発はあるかもしれないが、丁寧に説明すれば分かってもらえる」と了承した。同年の夏場にはダイヤが固まった。JR東海は、名古屋駅と京都駅を利用する顧客には、前後の列車を使用してもらうことで、極力不便を与えないような配慮を講じることにしていた。 ところが、須田が地元に根回しを始める前に、1991年(平成3年)11月2日、この方針が(前記の事情を無視して、通過するという話だけが)明らかになると、愛知県、特に名古屋市を筆頭に尾張地方の政財界から激しい反発が続出し、中日新聞など地元メディアも「名古屋飛ばし」として批判的な報道を行い、一カ月の間に国会議員や地方議員、鈴木礼治知事、西尾武喜市長、財界団体や主要企業のトップら百人近くが、JR東海に足を運んだ。 議員たちは超党派で議員連盟(議連)を作り、ダイヤ変更を求める動きを見せる。須田は「ダイヤは精緻に編成してあり、修正は利かない。議連ができたら困る」と焦りを隠さなかった。中日新聞のコラム「中日春秋」や大学教授などのコラム・社説・読者投稿欄などでも反応があった。 愛知県知事鈴木礼治は、JR東海の方針に対し「通過して結構だとは言えんわな」とやんわり指摘した。また、中部経済連合会の幹部は「本社のある所(中村区)に止まらないのはどういうことか」と発言した。更に今枝敬雄に対しても、須田は今枝が上京する際の名古屋駅ホームで、今枝を捕まえて「実害はないんです」と訴えた。 騒動の背景には、地元愛知県選出の海部俊樹が首相を退陣したことや、中部通商産業局(現経済産業局)長が名古屋圏の低落傾向が目立つことを報告するなどの事情もあり、鈴木知事は名古屋圏の地盤沈下を懸念するとともに、地元選出の国会議員たちは将来のリニア中央新幹線での名古屋駅通過にも至ることを危惧した。さらに「名古屋飛ばし」とは直接関係のない「名古屋学」講座の応募者数の増加、騒音問題を通じての「のぞみ」の問題視、政治家インタビューでも話題となった。 「早朝の1本だけ」というJR東海側の説明が功を奏して、次第に地元側にも理解が広がり、当初反発していた地元選出の国会議員たちも「1本だけなら」と条件付きで容認する議員が大勢となった。 地元駅通過が京都市では殆ど問題視されなかったのとは対照的に、名古屋市で大きく問題視された背景について、2012年(平成24年)に『朝日新聞』名古屋本社版夕刊の連載記事「のぞみ20年」を担当した朝日新聞社記者の神田大介は、JR東海が地元に事前の根回しをしていなかったことと、「名古屋飛ばし」をスクープしたのが『読売新聞』だったため、中京圏で圧倒的なシェアを誇る中日新聞をJR東海批判に走らせて、地元世論に影響したのではないかと分析している。 後の中日新聞のインタビューに対して、北川正恭は、議員集会で「民間会社に議員が口を挟むべきではない」と主張したと明かしている。北川は、かつて日本国有鉄道の改革委員会に所属し、政治家の利益誘導によるローカル線建設(=我田引鉄)が、国鉄の利益を圧迫し、国鉄分割民営化の遠因となった経緯に詳しく、その上で「民営化後も同じでは駄目だと思った」と振り返っている。 懸念した議員連盟の結成には至らず、今枝ら強硬派も、将来のリニア中央新幹線で「名古屋飛ばし」がないように「今回のダイヤとリニアの停車駅は関係ない」との覚書をJR東海に出させ、矛を収める。こうして、騒動の主たる中部地方の政財界とJR東海の対立は1か月で終息した。 須田は一連の騒動について、後の中日新聞のインタビューに対し「名古屋飛ばしの批判は新幹線を大事にしてくれている裏返し。民間会社として、地元がいかに大事かを痛感した」と振り返っている。 こうして1992年(平成4年)3月14日に「のぞみ301号」が運転を開始した。同列車が名古屋駅を通過する瞬間は、地元メディアを中心に大きく報じられた。なお名古屋・京都両駅は、いずれも全列車停車を前提とした駅構造や配線となっているため、70km/hの速度制限が行われ、新幹線列車としては非常に低速での通過となっていた。翌1993年(平成5年)3月18日の「のぞみ」規格ダイヤ組込に合わせたダイヤ改正では、この列車に続行する「新横浜駅通過、名古屋・京都両駅停車」の「のぞみ1号」が設定された。
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