「ねぶり流し」から「役七夕」へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/06 18:15 UTC 版)
「能代役七夕」の記事における「「ねぶり流し」から「役七夕」へ」の解説
前述の『風俗問状答』七月の記事中には、七夕灯籠の制作・運行と五町組との関わりは記されていないが、同じく能代の祭りとして一項が立てられた能代鹿嶋祭の記事の中では、毎年の当番町が祭りに使う舟と人形を作っていた旨の記述があることから、五町組が祭りに関与する形式は、鹿嶋祭では19世紀第一四半期に既に確立していたとみられる一方、七夕行事ではまだなかったものと推測されている。しかし、幕末慶応年間に檜山(現在の能代市東部、檜山地区)浄明寺の住職・法傑が記した日記には、畠町(上町組)、富町(大町組)、万町(万町組)がそれぞれ出した七夕灯籠を巡って争論が発生した旨の記述があり、この頃には五町組が祭りの運行に携わるようになっていたと考えられる一方、複数の町組から七夕灯籠が出ていて、年番の町組のみが祭りを執り行う後年の様式とは差異があることも読み取れる。これは明治維新を迎えて以後もしばらく変わらず、1873年(明治6年)の祭りでは新町(後町組)、畠町(上町組)、羽立町(万町組)、馬喰町(清助町組)から七夕灯籠が出ている。現行の町組による当番制が確立した時期は明確でないが、1893年(明治26年)の資料には「本年は清助町当番にて」と当番制を所与の前提として書かれた記述があることから、明治中期には当番制があったものと考えられている。ただし、「親しみ丁」の関係に見られるような、当番の町組以外の町が加勢丁として七夕灯籠を出すケースはその後も見られた。このように、19世紀の数十年間を通して、五町組が祭りの主体となる様式が形成されていったのである。 また、概要で述べた通り、明治期まで祭りの呼称は「ねぶ流し」「眠ながし」「ねむた流し」、あるいは単に「七夕」であり、「役七夕」と呼ばれてはいなかった。この時期における「役七夕」とは、七夕行事の中で当番町たる大丁が出す七夕灯籠固有の呼称であり、加勢丁が出す七夕灯籠とは規模の上で一線を画すものであった。それが次第に行事そのものの呼称へと意味合いが変化していくことになるが、その時期もまた明確でない。しかし、大丁が出す七夕灯籠を指して役七夕という用例は昭和戦後の北羽新報の新聞記事まで連綿と見られるものである。能代の七夕行事は1996年(平成8年)に秋田県教育委員会によって記録選択無形民俗文化財に指定されているが、その際に指定された名称は、古称に沿った「能代のねぶ流し行事」である。
※この「「ねぶり流し」から「役七夕」へ」の解説は、「能代役七夕」の解説の一部です。
「「ねぶり流し」から「役七夕」へ」を含む「能代役七夕」の記事については、「能代役七夕」の概要を参照ください。
- 「ねぶり流し」から「役七夕」へのページへのリンク